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時代の変遷・概略 漢詩理解のための時代の解説一覧
 中国の時代と詩人のたち
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中国4000年の奇跡

杜甫・王維・李白の生きた時代:関連年賦

○安史の乱と3詩人編集中

杜詩研究

●杜詩研究編集中

○ 杜甫詩 1411首
  ・ 年賦・詩の時系序列
○ 杜甫 詩目次と詩のタイトル
○ 杜甫アウトライン
○ 杜甫ものがたり編集中
○ 杜甫 李白を詠う

◎ 青年期と李白と遭遇期
◎ 李白と別離仕官叶う期
◎ 漂泊の旅情期

○ 杜甫私記編集中
○ 杜詩研究編集中

 杜甫の人生(一般論)
  吉川幸次郎『杜甫ノート」の要約
 杜甫間違った士官の
 杜詩『白髪の詩」の変遷
 杜詩「政治的発言」変化
 杜詩「愛すべき詩」
  中国詩史上初、妻を愛す詩
 杜詩「自然への愛」
 杜詩「抑圧された人への愛」
  中国詩史上初、社会で抑圧された人を詠う
 杜詩「調子に乗ってしまった?」
 杜甫の人生
  杜詩の画期的時期につぃて

◎ 杜甫 李白を詠う
  ・贈李白[五言律排]
  ・贈李白[七言絶句]
  ・遣懐
  ・春日憶李白
  ・飲中八仙歌
  ・昔游
  ・冬日有懐李白



王維の詩

● 王維詩研究

  ・ 王維詩 
    年賦・詩の時系序列
○ 王維 詩目次と詩のタイトル
○ 王維詩アウトライン
○ 王維ものがたり(一般論)
○ 王維ものがたり(画期的時期)研究
   王維 罔川集 20首


李白の詩
■ 李白の詩
 ・送別の詩  ・春爛漫詩
 ・楼上の詩  ・交友の詩
 ・情愛の詩  ・酒友の詩
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 ・閑適の詩  ・老境の詩
 ・冬日の詩  ・人生の詩
◎ 李白杜甫を詠う
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居庸関(きょようかん):北京の昌平区南口県にあり北京から60キロ。万里の長城の要所要所にある関所の一つ。秦代に始皇帝が長城建設を命じ、工事のため、集められた人々がここに移住させられたという意味の「徙居庸徒(しきょようと)」に由来するという。歴史的には春秋戦国時代に燕国はここを重要な出入り口として"塞"を置いたことに始まる。漢代には居庸関の規模も大きくなり、南北朝時期には関城ができ長城が連なった。その後、唐、遼、金、元と重要な関城となってきた。

●八達嶺長城(はったつれいちょうじょう)北京市延慶県にあり。おなじみの最も観光客の多い長城。

●八達嶺水関長城(はったつれいすいかんちょうじょう)八達嶺ヘの途中にあり河谷中に建てられた珍しい長城。
●九眼楼長城(きゅうがんろう)北京市延慶県にあり。長城上の建築規模は最大といわれる。
●箭扣長城(せんこうちょうじょう)北京市懐柔区にあり。明代長城で著名な峻険な部分のひとつ。
●雲蒙山長城(うんもうさんちょうじょう)北京市密雲ダムの西にあり。

明代長城。

司馬台(しばだい)北京から120キロの密雲県東庄郷にあり。観光地として知られる。明の洪武初年に建設が始まる。司馬台長城は全長5.4キロ、関所口の所はダムができている。長城の高所にある望京楼は海拔986メートル。

 司馬台長城の望京楼
24、慕田峪関(ぼでんよくかん):北京市懐柔区の中心部から北へ20キロ。観光地として開放されており整備部分の長城は約3キロ。

沿河城(えんがじょう)北京市門頭溝区河城郷。小規模な古城風景、多くは明代の建築。1991年から北京市文物局が沿河城の保護修理を実施。場内に百余の人家あり。

将軍関・将軍石関(しょうぐんかん・しょうぐんせきかん)北京市平谷県の東北約40キロ明の長城線上にある重要な関所。保存はかなりよい。

白馬関(はくばかん)北京市密雲県番字碑郷。古いままの長城が村落内に残る。

鹿皮関(かひかん)北京市密雲県中心部の北20キロ。白河が鹿皮関の下を流れる。長城創建は550-559年(北斉の天保年間)で明の万歴年間に修理。関所は損壊しているが、長城上には望海楼が残る。

河防口(かぼうこう):北京市懐柔区、国道111号線の燕栖湖を過ぎて山上に延びる長城が見える。今は関所の跡は損壊している。

蓮花池関(れんかちかん):北京市懐柔区にあり、古くは開蓮口関、地元では欠糧関といった。明の薊鎮の重要関所。


黄花城関(こうかじょうかん):古くは黄花路また黄花鎮といった。北京市懐柔区九渡河鎮黄花城村東北にある。北京の北門にあたり、東の古北口、西の居庸関、北隣の四海冶口(延慶県)とともに戦略上重要な土地であった。明の長城の重要な関口として天順八年(1464)に建造、東城壁が現存する。城の東南に著名な敵楼の九眼楼がある。

 黄花城関

撞道口関(とうどうこうかん)また鎮虜関ともいう。北京市懐柔区黄花城郷撞道口村。明代の建造、東に磨石口を臨み南に黄花城が近い。関城両側の長城は比較的よく保存されている。

九孔楼(きゅうこうろう)北京市懐柔県と延慶県の境界。楼の一部はすでに崩れている。

四海冶口(しかいやこう)北口子ともいう。北京市延慶県。関口の南五里に四海冶堡があったが今は損壊している。

山海関(さんがいかん)河北省と遼寧省の境にある。かつては長城の東端といわれてきた。漢代には臨楡関といわれ、12世紀の女真に対する防衛の要地であった。明代に山海衛が置かれてから山海関と呼ばれた。明末の満洲族の侵入を何度も防いだ。山海関が天下第一関と呼ばれるのは天下に名高い関所の意味よりも、東から数えて最初の関所の意味である。山海関は周囲約4キロ、城壁の高さは14メートル、厚さ7メートル、4つの城門のある城関で、現在の城関は明の洪武14年(1381年)の建造。約4キロ先の長城の東端は渤海に突き出た老龍頭である。そこから長城は角山へと登っていく。

井ケイ関(いけいかん)今の河北省井ケイ県西面の太行山にあり、"井ケイ"の口にあたるところからこの名がある。漢・唐代か ら知られた関所である。河北省鹿泉市の井荻道路北の東土門、西土門(古代の土門村)にあるのが土門関。古代の井ケイ口で、土門関は井ケイ関の一部分であった。井ケイ関は地域を指す意味で、東土門関は井ケイ関の東口を、西の関は娘子関で西口であった。井ケイ境内の古道である。

娘子関(にゃんずかん)井ケイ関の西口、山西省平定県から東北45キロ。唐の太宗の妹・平陽公主がここに駐兵したところからこの名がある。万里の長城第九関という。現在関門、城壁、古車馬道が残る。東門附近には百尺の高さという娘子関瀑布が見られる。

雁門関(がんもんかん):また西ケイ関ともいう。山西省代県の西北20キロにあり。寧武関、偏頭関と合わせ"三関"という。

 雁門関

陳琳と汪遵 邊塞詩


万里の長城  陳琳と汪遵


万里の長城。世界最大の建造物。そこには建設に狩り出された人々の、血、汗、涙、そして尊い命までもがしみ込んでいるのです。


飲馬長城窟行   陳 琳


飲馬長城窟、水寒傷馬骨。

往謂長城吏、慎莫稽留太原卒。

官作自有程、挙築諧汝声。

男児寧当格闘死、何能怫鬱築長城。


万里の長城の岩穴で馬に水を飲ませてしまうと、その水は冷たく馬の骨まで傷つけるほどだ

俺は監督の役人に言ってやった

「どうか太原から来ている人足を帰してやってください」

訴えを聞いた役人は「お上の仕事には工程が決められているのだ。文句を言わずに杵を取って声を合わせて働け」と言う

人足は「男たるもの戦いの中で死ぬならまだしも、なんでこんな長城を築くやるせない仕事で朽ち果てるのは嫌だ」と憤懣をもらす


馬に飲(みずか)う長城の窟(いわや)

水寒うして馬骨(ばこつ)を傷(いたま)しむ

往きて長城の吏(り)に謂(い)う

慎んで太原(たいげん)の卒(そつ)を稽留(けいりゅう)する莫(なか)れ

官作(かんさく)自ら程(てい)有り

築(きね)を挙げて汝の声を諧(ととの)えよ

男児は寧(むし)ろ当(まさ)に格闘して死すべし

何ぞ能(よ)く怫鬱(ふつうつ)として長城を築かん



陳琳は後漢の建安の七子の一人。秦の万里の長城建設に後漢の衰亡を重ね合わせているという


2)陳 琳(ちん りん)  未詳 - 217年  後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。飲馬長城窟行    易公孫餐與子書


建安文学 (けんあんぶんがく)

 後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。建安の三曹七子 1)孔融・2)陳琳・3)徐幹・4)王粲・5)応楊・6)劉驕E8)阮禹、建安の七子と曹操・曹丕・曹植の三曹を同列とし、建安の三曹七子と呼称する。




時代は9世紀唐のに王遵は詠います。


長城  汪遵


秦築長城比鉄牢、

蕃戎不敢逼臨兆。

焉知万里連雲勢、

不及堯階三尺高。


秦の始皇帝は鉄のように頑丈な長城を築き、さすがの匈奴を臨兆の街に近づくことはできなかった。だが、はるかかなたの雲まで届きそうな万里の長城はあの聖主である堯帝のわずか三尺の高さの階段にも及ばなかった。


 堯帝とは古代中国を治めた伝説の皇帝です。その宮殿は質素で土の階段で、わずか三尺の高さであった。それでも堯帝は徳を持って国を治めたといわれます。

 一方、秦の始皇帝は万里の長城を始め、権力任せて国を統一した。ある意味では、中国最初の統一国家を成し遂げたことは歴史に残る偉大なことではあるのですが、彼の死後、たちまち国の内部で反乱がおこり、国は滅びたのです。国を興してわずか15年でした。

 国の守りは、築城の険ではなく、「徳に在って、険にあらず」と詠じていますが、秦という国は、国を一気に統一する力を使い切ってしまった結果短期間で滅びたのですが、中国の統一国家は次の漢以後約700年くらい後、581年隋の統一までかかります。


秦 長城を築いて 鉄牢に比す

蕃戎 敢えて 臨兆に逼(せま)らず

焉くんぞ知らん 万里 連雲の勢い

及ばず 堯階 三尺の高きに







これらの詩の漢文委員会の解説

 陳琳の詩そのものは古来からよくある「問答」詩ですが、最初聯、「万里の長城の岩穴で馬に水を飲ませてしまうと、その水は冷たく馬の骨まで傷つけるほどだ」には驚かされます。

 子の頃から、兵役負担は当時の人々には重い税だったのです。律体制に移行する時代の詩で社会情勢をよく反映しています。。



 この王遵の「国を治めるに徳をもって為せ」ですが、もし秦の始皇帝が万里の長城を築かなかったら(実際には1/3の規模でそれまで築かれていた)、異民族にもっと早く滅ぼされ中国の歴史は変わっていたでしょう。古代における長城建設の威力は大きいものがあったのです。

 国力以上のものを建設し、国の富み、特に人民にそれを強いたのが滅ぼす原因で歴史の必然であることには間違いはありません

 匈奴という国は遊牧民族、騎馬民族です。中国、漢民族の農耕民族と決定的な違いは国力の強化は奪うことが基本なのです。略奪する、制覇して力根こそぎ奪うのです。戦争の本質はいつの時代も同じですが、古代においては、大殺戮と焼野原になりますから、殺さなければ奴隷ですから、万里の長城は偉大な建設物だったのです。万里の長城があるおかげで防御はポイント強化、人配置で済みます。もし3尺の土塁しかなかったら、中国の歴史は変わったでしょう。


 この王遵の詩も実際に戦ったりとか実体験のものでなく、多くの邊塞詩がそうであるように、文人たちの間で交わされる詩であったと思われます。

 現在でも受けを狙って、面白おかしくされる議論に似ています。この詩からは儒教とか道教の徳の論理性とは違うものを感じます。






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