←前へ  次へ→    『題目弥陀名号勝劣事』
(★329n)前
 詮ずるところ、近来の念仏者並びに有智の名匠とおぼしき人々の、臨終の思ふやうにならざるは是大謗法の故なり。人ごとに念仏申して、浄土に生まれて法華経をさとらんと思ふ故に、穢土にして法華経を行ずる者をあざむき、又行ずる者もすてゝ念仏を申す心は出で来たるなりと覚ゆ。謗法の根本此の義より出でたり。法華経こそ此の穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ。念仏等は未顕真実の故に浄土の直因にはあらず。然るに浄土の正因をば極楽にして、後に修行すべき物と思ひ、極楽の直因にあらざる念仏をば浄土の正因と思ふ事僻案なり。浄土門は春沙を田に蒔きて秋米を求め、天月をすてゝ水に月を求むるに似たり。人の心に叶ひて法華経を失ふ大術、此の義にはすぎず。
  次に不浄念仏の事。一切念仏者の師とする善導和尚・法然上人は、他事にはいわれなき事多けれども、此の事にをいてはよくよく禁められたり。 善導の観念法門経に云はく「酒肉五辛を手に取らざれ、口にかまざれ。手にとり口にもかみて念仏を申さば、手と口に悪瘡付くべし」と禁め、法然上人は起請を書いて云はく「酒肉五辛を服して念仏申さば予が門弟にあらず」と云云。不浄にして念仏を申すべしとは当世の念仏者の大妄語なり。
  問うて云はく、善導和尚・法然上人の釈を引くは彼の釈を用ふるや否や。答へて云はく、しからず。念仏者の師たる故に、彼がことば己が祖師に相違するが故に、彼の祖師の禁めをもて彼を禁むるなり。例せば世間の沙汰の彼が語の彼の文書に相違するを責むるが如し。問うて云はく、善導和尚・法然上人には何事の失あれば用ひざるや。答へて云はく、仏の御遺言には、我が滅度の後には四依の論師たりといへども、法華経にたがはゞ用ふべからずと、涅槃経に返す返す禁め置かせ給ひて侍るに、法華経には我が滅度の後、末法に諸経失せて後、殊に法華経流布すべき由、一所二所ならず、あまたの所に説かれて侍り。随って天台・妙楽・伝教・安然等の義に此の事分明なり。然るに善導・法然、法華経の方便の一分たる四十余年の内の未顕真実の観行等に依って、
 
平成新編御書 ―329n―