←前へ 次へ→ 『題目弥陀名号勝劣事』
(★328n)
法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉りて、功徳を成就する人、初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、始めて信を致すなり。諸仏の名号は外道・諸天・二乗・菩薩の名号にあはすれば、瓦礫と如意宝珠の如くなれども、法華経の題目に対すれば、又瓦礫と如意宝珠との如し。当世の学者は法華経の題目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ、又同じ事と思へるは、瓦礫と如意宝珠とを同じと思ひ一と思ふが如し。止観の五に云はく「設ひ世を厭ふ者も下劣の乗を翫び、枝葉に攀附し狗作務に狎れ、猴を敬ひて帝釈と為し瓦礫を崇めて是明珠なりとす。此の黒闇の人、豈道を論ずべけんや」等云云。文の心は設ひ世をいとひて出家遁世して山林に身をかくし、名利名聞をたちて一向に後世を祈る人々も、法華経の大乗をば修行せずして、権教下劣の乗につきたる名号等を唱ふるを、瓦礫を明珠なんどと思ひたる僻人に譬へ、闇き悪道に行くべき者と書かれて侍るなり。弘決の一には妙楽大師、善住天子経をかたらせ給ひて、法華経の心を顕はして云はく「法を聞きて謗を生じ、地獄に堕するは恒沙の仏を供養する者に勝る」等云云。法華経の名を聞きてそしる罪は、阿弥陀仏・釈迦仏・薬師仏等の恒河沙の仏を供養し、名号を唱ふるにも過ぎたり。されば当世の念仏者の念仏を六万遍乃至十万遍申すなんど云へども、彼にては終に生死をはなるべからず。法華経を聞くをば千中無一・雑行・未有一人得者なんど名づけて、或は抛てよ、或は閉ぢよなんど申す謗法こそ、設ひ無間大城に堕つるとも、後に必ず生死は離れ侍らんずれ。同じくは今生に信をなしたらばいかによく候なん。
問ふ、世間の念仏者なんどの申す様は、此の身にて法華経なんどを破する事は争でか候べき。念仏を申すも、とくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんが為なり。又或は云はく、法華経は不浄の身にては叶ひがたし、恐れもあり。念仏は不浄をも嫌はねばこそ申し候へなんど申すはいかん。答へて云はく、此の四・五年の程は世間の有智無智を嫌はず、此の義をばさなんめりと思ひて過ぐる程に、日蓮一代聖教をあらあら引き見るに、いまだ此の二義の文を勘へ出ださず。
平成新編御書 ―328n―