←前へ  次へ→    『題目弥陀名号勝劣事』
(★330n)後
 仏も説かせ給はぬ我が依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて、還って我が経の名号に対して読誦大乗の一句をすつる時、法華経を抛てよ、門を閉ぢよ、千中無一なんど書きて侍る僻人をば、眼あらん人是をば用ふべしやいなや。疑って云はく、善導和尚は三昧発得の人師、本地阿弥陀仏の化身、口より化仏を出だせり。法然上人は本地大勢至菩薩の化身、既に日本国に生まれては念仏を弘めて、頭より光を現ぜり。争でか此等を僻人と申さんや。又善導和尚・法然上人は、汝が見る程の法華経並びに一切経をば見給はざらんや。定めて其の故是あらんか。答へて云はく、汝が難ずる処をば世間の人々定めて道理と思はんか。是偏に法華経並びに天台・妙楽等の実教実義を述べ給へる文義を捨て、善導・法然等の謗法の者にたぼらかされて、年久しくなりぬるが故に思はする処なり。先づ通力ある者を信ぜば、外道・天魔を信ずべきか。或外道は大海を吸ひ干し、或外道は恒河を十二年まで耳に湛へたり、第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず。阿難尊者、猶魔と仏とを弁へず。善導・法然が通力いみじしといふとも、天魔外道には勝れず。其の上仏の最後の禁めに、通を本とすべからずと見えたり。
  次に善導・法然は一切経並びに法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ、是又謗法の人のためには、さもと思ひぬべし。然りといへども、如来の滅後には先の人は多分賢きに似て、後の人は大旨ははかなきに似たれども、又先の世の人の世に賢き名を取りてはかなきも是あり。外典にも、三皇・五帝・老子・孔子の五経等を学びて賢き名を取れる人も、後の人にくつがへされたる例是多きか。内典にも又かくの如し。仏法漢土に渡りて五百年の間は明匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の慧観等には過ぎざりき。此等の人々は名を天下に流し、智水を国中にそゝぎしかども、天台智者大師と申せし末の人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用ひず。後には信用を加へし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり。日本国にも仏法渡りて二百余年の間は、異義まちまちにして、何れを正義とも知らざりし程に、伝教大師と申す人に破られて、
 
平成新編御書 ―330n―