←前へ  次へ→    『南条兵衛七郎殿御書』
(★323n)
 一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し、当世の人々は謗法の者としろしめすべし是二。
  仏入滅の次の日より千年をば正法と申す、持戒の人多く又得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり、破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年、持戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだれたる世なり。清世と申してすめる世には直縄のまがれる木をけづらするがやうに非をすて是を用ふるなり。正像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波ををこしてきしをうつのみならず又波と波とをうつなり。見濁と申すは正像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり、世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり。しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入りて二百余年なり。見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり、火を水を以てけすが如し。善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起こる事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり。すたれあばるれども念仏堂にあらずといゐてすてをきて、そのかたわらにあたらしく念仏堂をつくり、彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす。此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしと見へはんべり。此等をもちてしるべし。善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機みなうせはてゝ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作れるが如し。時があはざるなり是三。
 
平成新編御書 ―323n―