←前へ  次へ→    『南条兵衛七郎殿御書』
(★322n)前
 比等の文をみ候に仏教を信ぜぬ悪人外道はさておき候ひぬ。仏教の中に入り候ひても爾前・権教・念仏等を厚く信じて十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人々は先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか。此等は仏説を信じたりげには、我が身も人も思ひたりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も而も信受せず」等云云。此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの天神地祇にすてられたてまつらざらんや、不孝第一の者なり。故に「復教詔すと雖も而も信受せず」等と説かれたり。たとひ爾前の経につかせ給ひて百千万億劫行ぜさせ給ふとも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば、不孝の人たる故に三世十方の聖衆にもすてられ天神地祇にもあだまれ給はんか是一。
  たとい五逆十悪無量の悪をつくれる人も、根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これなり。たとい根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり、須利槃特等是なり。我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもずぎ、物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪瞋癡きわめてあつく、十悪は日々にをかし、五逆をばおかさゞれども五逆に似たる罪又日々におかす。又十悪五逆にずぎたる謗法は人ごとにこれあり。させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。又もちゐたる様なれども念仏等の様には信心ふかからず。信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
 
平成新編御書 ―322n―