←前へ 次へ→ 『当世念仏者無間地獄事』
(★318n)
但一機一縁の小事なり。何ぞ一代を摂して之を嫌はん。三師並びに法然此の義を弁へずして、諸行の中に法華・涅槃並びに一代を摂して末代に於て之を行ぜん者は千中無一と定むるは、近くは依経に背き遠くは仏意に違ふ者なり。但し竜樹の十住毘婆沙論の難行の中に法華・真言等を入ると云ふは論文に分明に之有りや。設ひ論文に之有りとも慥かなる経文之無くば不審の内なり。竜樹菩薩は権大乗の論師たりし時の論なるか、又訳者の入れたるかと意得べし。其の故は仏は無量義経に四十余年は難行道、無量義経は易行道と定め給ふ事金口の明鏡なり。竜樹菩薩仏の記文に当たりて出世し諸経の意を演ぶ。豈仏説なる難易の二道を破って私に難易の二道を立てんや。随って十住毘婆沙論の一部始中終を開くに、全く法華経を難行の中に入れたる文之無し。只華厳経の十地を釈するに、第二地に至り畢って宣べず。又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに、菩薩難行道に堕し、二乗地に堕して永不成仏の思ひを成す由見えたり。法華已前の論なる事疑ひ無し。竜樹菩薩の意を知らずして、此の論の難行の中に法華・真言を入れたりと料簡するか。浄土の三師に於ては、書釈を見るに難行・雑行・聖道の中に法華経を入れたる意粗之有り。然りと雖も法然が如き放言の事之無し。加之仏法を弘めん輩は、教・機・時・国・教法流布の前後を検ふべきか。
如来在世に前の四十余年には大小を説くと雖も説時未至の故に本懐を演べ給はず。機有りと雖も時無ければ大法を説き給はず。霊山八年の間誰か機にあらざるも、時来たる故に本懐を演べたまふに権機移りて実機と成る。法華経の流通並びに涅槃経には、実教を前とし権教を後とすべきの由見えたり。在世には実を隠して権を前にす、滅後には実を前として権を後と為すべし。道理顕然なり。然りと雖も天竺国には正法一千年の間は外道有り、一向小乗の国有り、又一向大乗の国有り、又大小兼学の国有り。漢土に仏法渡りても又天竺の如し。日本国に於ては外道も無く小乗の機も無く唯大乗の機のみ有り。大乗に於ても法華よりの外の機無し。但し仏法日本に渡り始めし時、
平成新編御書 ―318n―