←前へ 次へ→ 『当世念仏者無間地獄事』
(★316n)
阿弥陀経に云はく「小善根を以てすべからず乃至一日七日」等云云。先づ双観経の意は念仏往生・諸行往生と説けども一向専念と云ひて諸行往生を捨て了んぬ。故に弥勒の付嘱には一向に念仏を付嘱し了んぬ。観無量寿経の十六観も、上の十五の観は諸行往生、下輩一観の三品は念仏往生なり。仏阿難尊者に念仏を付嘱するは諸行を捨つる意なり。阿弥陀経には双観経の諸行観無量寿経の前十五観を束ねて小善根と名づけ往生を得ざるの法と定め畢んぬ。双観経には念仏をば無上功徳と名づけて弥勒に付嘱し、観経には念仏をば芬陀利華と名づけて阿難に付嘱し、阿弥陀経には念仏をば大善根と名づけて舎利弗に付嘱す。終はりの付嘱は一経の肝心を付嘱するなり。又一経の名を付嘱するなり。三部経には諸の善根多しと雖も其の中に念仏最もなり。故に題目には無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等と云へり。釈摩訶衍論・法華論等の論を以て之を勘ふるに一切経の初めには必ず南無の二字有り。梵本を以て之を言はゞ三部経の題目には南無之有り。双観経の修諸の二字に念仏より外の八万聖教残るべからず。観無量寿経の三福九品等の読誦大乗の一句に一切経残るべからず。阿弥陀経の念仏の大善根に対する小善根の語に法華経等漏るべきや。総じて浄土の三部経の意は行者の意楽に随はんが為に暫く諸行を挙ぐと雖も、再び念仏に対する時は諸行の門を閉じて捨閉閣抛する事顕然なり。例せば法華経を説かんが為に無量義経を説くの時、四十余年の経を捨てゝ法華の門を開くが如し。竜樹菩薩十住毘婆沙論を造りて一代聖教を難易の二道に分かてり。難行道とは三部経の外の諸行なり。易行道とは念仏なり。経論此くの如く分明なりと雖も震旦の人師此の義を知らず。唯善導一師のみ此の義を発得せり。所以に双観経の三輩を観念法門に書いて云はく「一切衆生の根性不同にして上中下有り。其の根性に随って仏皆無量寿仏の名を専念することを勧む」等云云。此の文の意は発菩提心・修諸功徳等の諸行は他力本願の念仏に値はざりし以前に修する事よと有りけるを、忽ちに之を捨てよと云ふとも行者用ふべからず、故に暫く諸行を許すなり。実には念仏を離れて諸行を以て往生を遂ぐる者之無しと書きしなり。観無量寿経の「仏告阿難」等の文を善導の疏の四に之を受けて日く「上来定散両門を説くと雖も仏の本願に望むれば意衆生の一向に専ら阿弥陀の名を称するに在り」云云。定散とは八万の権実顕密の諸経を尽くして之を摂して念仏に対して之を捨つるなり。善導の法事讃に阿弥陀経の大小善根の故を釈して云はく「極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善恐らくは生じ難し。故に如来要法を選んで教へて弥陀専修を念ぜしむ」等云云。諸師の中に三部経の意を得たる人は但導一人のみなり。如来の三部経に於ては是くの如く有れども正法・像法の時は根機猶利根の故に諸行往生の機も之有りけるか。然るに機根衰へて末法と成る間、諸行の機漸く失せ念仏の機と成れり。更に阿弥陀如来は善導和尚と生まれて震旦に此の義を顕はす。和尚日本に生まれて初めは叡山に入って修行し、後には叡山を出でて一向に専修念仏して三部経の意を顕はし給ひしなり。汝捨閉閣抛の四字を謗法と過むること未だ導和尚の釈並びに三部経の文を窺はざるか。狗の雷を齧むが如く地獄の業を増す。汝知らずんば浄土家の智者に問へ。
平成新編御書 ―316n―