←前へ  次へ→    『当世念仏者無間地獄事』
(★314n)
 三には無記往生、群疑論に出でたり。四には狂乱往生、観経の下品下生に出でたり。詰って日く、此の中の意・正の二は且く之を置く。無記往生は何れの経論に依って懐感禅師之を書けるや。経論に之無くば信用取り難し。第四の狂乱往生とは引証は観経の下品下生の文なり。第一に悪人臨終の時、妙法を覚れる善知識に値ふて覚る所の諸法実相を説かしめて、之を聞く者正念存し難く十悪・五逆・具諸不善の苦に逼められて妙法覚ることを得ざれば善知識実相の初門と為る故に、称名して阿弥陀仏を念ぜよと云ふに音を揚げて唱へ了んぬ。此は苦痛に堪へ難くして正念を失ふ狂乱の者に非ざるか。狂乱の者争でか十念を唱ふべき。例せば正念往生の所摂なり。全く狂乱の往生には例すべからず。而るに汝等が本師と仰ぐ所の善導和尚は此の文を受けて転教口称とは云ふとも狂乱往生とは云はず。其の上汝等が昼夜十二時に祈る所の願文に云はく「願はくは弟子等命終の時に臨んで心顛倒せず心錯乱せず心失念せず、身心諸の苦痛無く身心快楽禅定に入るが如し」等云云。此の中に錯乱とは狂乱か。而るに十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達、並びに大檀那等の臨終の悪瘡等の諸の悪重病並びに臨終の狂乱は意得ざる事なり。而るに善導和尚の十即十生と定め、又定得往生等の釈の如きは疑ひ無きの処、十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発こるべし。何に況んや念仏宗の長者たる善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等皆悪瘡等の重病を受けて、臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る。其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず。善導和尚の定むる所の十即十生は欠けて嫌へる所の千中無一と成りぬ。千中無一と定められし法華・真言の行者は粗臨終の正念なる由之を聞けり。念仏の法門に於ては正像末の中には末法に殊に流布すべし。利根鈍根、善人悪人、持戒破戒等の中には鈍根・悪人・破戒等殊に往生すべしと見えたり。故に道綽禅師は唯有浄土一門と書かれ、善導和尚は十即十生と定め、往生要集には濁世末代の目足と云へり。念仏は時機已に叶へり。行ぜん者空しかるべからざるの処に、是くの如きの相違は大いなる疑ひなり。
 
平成新編御書 ―314n―