←前へ  次へ→    『当世念仏者無間地獄事』
(★313n)
 第一段の意は道綽禅師の安楽集に依って聖道浄土の名目を立つ。其の聖道門とは、浄土の三部経等を除いて自余の大小乗の一切経、殊には朝家帰依の大日経・法華経・仁王経・金光明経等の顕密の諸大乗経の名目、阿弥陀仏より已外の諸仏・菩薩・朝家御帰依の真言等の八宗の名目之を挙げて聖道門と名づく。此の諸経・諸仏・諸宗は正像の機に値ふと雖も未法に入りて之を行ぜん者一人も生死を離るべからずと云云。又曇黴法師の往生論註に依って難易の二行を立つ。第二段の意は善導和尚の五部九巻の書に依って正雑の二行を立つ。其の雑行とは道綽の聖道門の料簡の如し。又此の雑行は末法に入りては往生を得る者の千中に一も無きなり。下の十四段には或は聖道・難行・雑行をば小善根・随他意・有上功徳等と名づけ、念仏等を以ては大善根・随自意・無上功徳等と名づけて、念仏に対して末代の凡夫は此を捨てよ、此の門を閉じよ、之を閣けよ、之を抛てよ等の四字を以て之を制止す。而るに日本国中の無智の道俗を始めて大風に草木の従ふが如く、皆此の義に随って、忽ちに法華真言等に随喜の意を止め建立の思ひを廃す。而る間人毎に平形の念珠を以て弥陀の名号を唱へ、或は毎日三万遍・ 六万遍・十万遍・四十八万遍・百万遍等唱ふる間又他の善根も無く、念仏堂を造ること稲麻竹葦の如し。結句は法華・真言等の智者とおぼしき人々も皆、或は帰依を受けんが為、或は往生極楽の為、皆本宗を捨てゝ念仏者と成り、或は本宗ながら念仏の法門を仰げるなり。
  今云はく、日本国中の四衆の人々は形は異なり替はると雖も、意根は皆一法を行じて悉く西方の往生を期す。仏法繁昌の国と見えたる処に一の大なる疑ひを発こす事は、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者達、念仏宗の大檀那たる大名小名並びに有徳の者、多分は臨終思ふ如くならざるの由之を聞き之を見る。而るに善導和尚十即十生と定め十遍乃至一生の間の念仏者は一人も漏れず往生を遂ぐべしと見えたり。人の臨終と善導の釈とは水火なり。
  爰に念仏者会して云はく、往生に四有り。一には意念往生、般舟三昧経に出でたり。二には正念往生、阿弥陀経に出でたり。
 
平成新編御書 ―313n―