←前へ 次へ→ 『持妙法華問答抄』
(★296n)
未だ焦種の者作仏すべしとは説かず。かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。
問うて云はく、一を以て万を察する事なれば、あらあら法華のいはれを聞くに耳目始めて明らかなり。但し法華経をばいかやうに心得候てか、速やかに菩提の岸に到るべきや。伝へ聞く、一念三千の太虚には慧日くもる事なく、一心三観の広池には智水にごる事なき人こそ、其の修行に堪へたる機にて候なれ。然るに南都の修学に臂をくだす事なかりしかば、瑜伽・唯識にもくらし。北嶺の学文に眼をさらさざりしかば、止観・玄義にも迷へり。天台・法相の両宗はほとぎを蒙って壁に向かへるが如し。されば法華の機には既にもれて候にこそ、何んがし候べき。答へて云はく、利智精進にして観法修行するのみ法華の機ぞと云ひて、無智の人を妨ぐるは当世の学者の所行なり。是還って愚癡邪見の至りなり。一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要なり。されば経には「浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と説き給へり。いかにも信じて次の生の仏前を期すべきなり。譬へば高き岸の下に人ありて登る事あたはざらんに、又岸の上に人ありて縄をおろして此の縄にとりつかば、我岸の上に引き登さんと云はんに、引く人の力を疑ひ縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。争でか岸の上に登る事をうべき。若し其の詞に随ひて、手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし。「唯我一人のみ能く救護を為す」の仏の御力を疑ひ「以信得入」の法華経の教への縄をあやぶみて、「決定無有疑」の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず。菩提の岸に登る事難かるべし。不信の者は堕在泥梨の根元なり。されば経には「疑ひを生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり。受けがたき人身をうけ、値ひがたき仏法にあひて争でか虚しくて候べきぞ。
平成新編御書 ―296n―