←前へ  次へ→    『持妙法華問答抄』
(★295n)
 法華経に始めて仏になる実の道を顕はし給へりと釈し給へり。
  問うて云はく、已今当の中に法華経勝れたりと云ふ事はさも候べし。但し有る人師の云はく、四十余年未顕真実と云ふは法華経にて仏になる声聞の為なり。爾前の得益の菩薩の為には未顕真実と云ふべからずと云ふ義をばいかゞ心得候べきや。答へて云はく、法華経は二乗の為なり、菩薩の為にあらず、されば未顕真実と云ふ事二乗に限るべしと云ふは徳一大師の義か。此は法相宗の人なり。此の事を伝教大師破し給ふに「現在の麁食者は偽章数巻を作って法を謗じ人を謗ず、何ぞ地獄に堕せざらんや」と破し給ひしかば、徳一大師其の語に責められて舌八つにさけてうせ給ひき。未顕真実とは二乗の為なりと云はゞ最も理を得たり。其の故は如来布教の元旨は元より二乗の為なり。一代の化儀、三周の善巧、併ら二乗を正意とし給へり。されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏になるべからずと嫌ひ、方等には高峯に蓮の生ひざるように、二乗は仏の種をいりたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし、二乗は叶ふべからずと捨てらる。かゝるあさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし、法華経の規模とす。之に依って天台云はく「華厳大品も之を治すること能はず。唯法華のみ有って能く無学をして還って善根を生じ仏道を成ずることを得せしむ。所以に妙と称す」と。又「闡提は心有り、猶作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す、復称して妙と為す」云云。此の文の心は委しく申すに及ばず。誠に知んぬ、華厳・方等・大品等の法薬も、二乗の重病をばいやさず。又三悪道の罪人をも菩薩ぞと爾前の経にはゆるせども、二乗をばゆるさず。之に依って妙楽大師は「余趣を実に会すること諸経に或は有れども二乗は全く無し。故に菩薩に合して二乗に対し難きに従って説く」と釈し給へり。しかのみならず「二乗の作仏は一切衆生の成仏を顕はす」と天台は判じ給へり。修羅が大海を渡らんをば是難しとやせん。嬰児の力士を投げん、何ぞたやすしとせん。然らば則ち仏性の種ある者は仏になるべしと爾前に説けども、
 
平成新編御書 ―295n―