←前へ 次へ→ 『持妙法華問答抄』
(★294n)
法華経をうけたもたん事をねがひて、余経の一偈をもうけざれと見えたり。又云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」云云。此の文の心は、若し人此の経を信ぜずして此の経にそむかば、則ち一切世間の仏のたねをたつものなり。その人は命をわらば無間地獄に入るべしと説き給へり。此等の文をうけて天台は「将に魔の仏と作っての詞、正しく此の文によれり」と判じ給へり。唯人師の釈計りを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり。之に依て智証大師は「経に大小なく理に偏円なしと云って、一切人によらば仏説無用なり」と釈し給へり。天台は「若し深く所以有りて、復修多羅と合する者は、録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず」と判じ給へり。又云はく「文証無きは悉く是邪謂なり」とも云へり。いかゞ心得べきや。
問うて云はく、人師の釈はさも候べし。爾前の諸経に此の経第一とも説き、諸経の王とも宣べたり。若し爾らば仏説なりとも用ゆべからず候か如何。答へて云はく、設ひ此の経第一とも諸経の王とも申し候へ、皆是権教なり。其の語によるべからず。之に依て仏は「了義経によりて不了義経によらざれ」と説き、妙楽大師は「縦ひ経有りて諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はざれば兼但対帯其の義知んぬべし」と釈し給へり。此の釈の心は、設ひ経ありて諸経の王とは云ふとも、前に説きつる経にも後に説かんずる経にも此の経はまされりと云はずば、方便の経としれと云ふ釈なり。されば爾前の経の習ひとして、今説く経より後に又経を説くべき由を云はざるなり。唯法華経計りこそ最後の極説なるが故に、已今当の中に此の経独り勝れたりと説かれて候へ。されば釈には「唯法華に至って前教の意を説いて今教の意を顕はす」と申して、法華経にて如来の本意も、教化の儀式も定まりたりと見へたり。之に依って天台は「如来成道四十余年未だ真実を顕はさず、法華始めて真実を顕はす」と云へり。此の文の心は、如来世に出させ給ひて四十余年が間は真実の法をば顕はさず。
平成新編御書 ―294n―