←前へ  次へ→    『顕謗法抄』
(★290n)
 これは似破なり。能破とは、実にまされる経を劣とをもうてこれをはす、これは悪能破なり。又現にをとれるをはす、これ善能破なり。但し脇尊者の金杖の譬へは、小乗経は多しといへども同じ苦・空・無常・無我の理なり。諸人同じく此の義を存じて、十八部・二十部・相ひ諍論あれども、但門の諍ひにて理の諍ひにはあらず。故に共に謗法とならず。外道が小乗経を破するは、外道の理は常住なり、小乗経の理は無常なり空なり。故に外道が小乗経をはするは謗法となる。大乗経の理は中道なり。小乗経は空なり。小乗経の者が大乗経をはするは謗法となる。大乗経の者が小乗経をはするは破法とならず。諸大乗経の中の理は未開会の理、いまだ記小久成これなし。法華経の理は開会の理、記小久成これあり。諸大乗経の者が法華経をはするは謗法となるべし。法華経の者の諸大乗経を謗ずるは謗法となるべからず。大日経・真言宗は未開会、記小久成なくば法華経已前なり。開会・記小・久成を許さば涅槃経とおなじ。但し善無畏三蔵・金剛智・不空・一行等の性悪の法門・一念三千の法門は天台智者の法門をぬすめるか。若し爾らば、善無畏等の謗法は似破か又雑謗法か。五百羅漢の真因は小乗十二因縁の事なり。無明・行等を縁として空理に入ると見へえたり。門は諍へども謗法とならず。摂論の四意趣・大論の四悉檀等は、無著菩薩・竜樹菩薩滅後の論師として、法華経を以て一切経の心をえて四悉・四意趣等を用いて爾前の経々の意を判ずるなり。未開会の四意趣・四悉檀と開会の四意趣・四悉檀を同ぜば、あに謗法にあらずや。此等をよくよく知るは教をしれる者なり。
  四句あり。一に信而不解、二に解而不信、三に亦信亦解、四に非信非解。問うて云はく、信而不解の者は謗法なるか。答へて云はく、法華経に云はく「信を以て入ることを得」等云云。涅槃経の九に云はく。難じて云はく、涅槃経三十六に云はく「我契経の中に於て説く、二種の人有り仏法僧を謗ずと。一には不信にして瞋恚の心あるが故に、二には信ずと雖も義を解せざるが故に。善男子、若し人信心あって智慧有ること無き、是の人は則ち能く無明を増長す。
 
平成新編御書 ―290n―