←前へ 次へ→ 『顕謗法抄』
(★289n)
三家を上郎といふ。又主を王といはゞ百姓も宅中の王なり。地頭・領家等も又村・郷・郡・国の王なり。しかれども大王にはあらず。小乗経には無為涅槃の理が王なり。小乗の戒定等に対して智慧は王なり。諸大乗経には中道の理が王なり。又華厳経は円融相即の王、般若経は空理の王、大集経は守護正法の王、薬師経は薬師如来の別願を説く経の中の王、双観経は阿弥陀仏の四十八願を説く経の中の王、大日経は印・真言を説く経の中の王、一代一切経の王にはあらず。法華経は真諦俗諦・空仮中・印真言・無為の理・十二大願・四十八願、一切諸経の所説の所詮の法門の大王なり。これ教をしれる者なり。
而るを善無畏・金剛智・不空・法蔵・澄観・慈恩・嘉祥・南三北七・曇鸞・道綽・善導・達磨等の、我が所立の依経を一代第一といえるは教をしらざる者なり。但し一切の人師の中には天台智者大師一人教をしれる人なり。曇鸞・道綽等の聖道浄土・難行易行・正行雑行は、源十住毘婆沙論に依る。彼の本論に難行の内に法華・真言等を入れると謂へるは僻案なり。論主の心と論の始中終をしらざる失あり。慈恩が深密経の三時に一代ををさめたる事、又本経の三時に一切経の摂らざる事をしらざる失あり。法蔵・澄観等が五教に一代ををさむる中に、法華経・華厳経を円教と立て、又華厳経は法華経に勝れたりとをもへるは、所依の華厳経に二乗作仏・久遠実成をあかさざるに記小・久成ありとをもひ、華厳超過の法華経を我が経に劣ると謂ふは僻見なり。三論の嘉祥の二蔵等、又法華経に般若経すぐれたりとをもふ事は僻案なり。善無畏等が大日経は法華経に勝れたりといふ。法華経の心をしらざるのみならず、大日経をもしらざる者なり。
問うて云はく、此等皆謗法ならば悪道に堕ちたるか如何。答へて云はく、謗法に上中下雑の謗法あり。慈恩・嘉祥・澄観等が謗法は上中の謗法か。其の上自身も謗法としれるかの間、悔い還す筆これあるか。又他師をはするに二あり。能破・似破これなり。教はまされりとしれども、是非をあらはさんがために法をはす。
平成新編御書 ―289n―