←前へ 次へ→ 『顕謗法抄』
(★288n)
華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし、涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす。密厳経には一切経中王と説き、無量義経には四十余年未顕真実ととかれ、阿弥陀経には念仏に対して諸経を小善根ととかる。これらの例一にあらず。故に又彼の経々による人師、皆此の義を存ぜり。此等をもて思ふに、宗を立つる方は我が宗に対して諸経を破るはくるしからざるか。
難じて云はく、華厳経には小乗・大乗・一乗とあげ、密厳経には一切経中の王ととかれ、涅槃経には是諸大乗とあげ、阿弥陀経には念仏に対して諸経小善根とはとかれたれども、無量義経のごとく四十余年と年限を指して、其の間の大部の諸経を、阿含・方等・般若・華厳等の名をよびあげて勝劣をとける事これなし。涅槃経の是諸大乗の文計りこそ、双林最後の経として是諸大乗ととかれたれば、涅槃経には一切経は嫌はるかとおぼうれども、是諸大乗経と挙げて、次下に諸大乗経を列ねたるに、十二部修多羅・方等・般若等とあげたり。無量義経・法華経をば載せず。但し無量義経に挙ぐるところは四十余年の阿含・方等・般若・華厳経をあげたり。いまだ法華経・涅槃経の勝劣はみへず。密厳に一切経中王とはあげたれども、一切経をあぐる中に華厳・勝鬘等の諸経の名をあげて一切経中王ととく。故に法華経等とはみへず。阿弥陀経の小善根は時節もなし小善根の相貌もみへず。たれかしる、小乗経を小善根というか。又人天の善根を小善根というか。又観経・双観経の所説の諸善を小善根というか。いまだ一代を念仏に対して小善根というとはきこえず。又大日経・六波羅蜜経等の諸の秘教の中にも、一代の一切経を嫌ふてその経をほめたる文はなし。但し無量義経計りこそ前四十余年の諸経を嫌ひ、法華経一経に限りて、已説の四十余年・今説の無量義経・当説の未来にとくべき涅槃経を嫌ふて法華経計りをほめたり。釈迦如来・過去現在未来の三世の諸仏、世にいで給ひて各々一切経を説き給ふに、いずれの仏も法華経第一なり。例せば上郎・下郎不定なり。田舎にしては、百姓・郎従等は侍を上郎といふ。洛陽にして、源平等已下を下郎といふ。
平成新編御書 ―288n―