←前へ  次へ→    『顕謗法抄』
(★286n)
 答へて云はく、異論相違ありといえども皆得道なるか。仏の滅後四百年にあたりて健駄羅国の迦弐色迦王、仏法を貴み、一夏、僧を供し仏法をといしに一々の僧異義多し。此の王不審して云はく、仏説は定んで一ならん、終に脇尊者に問ふ。尊者答へて云はく、金杖を折って種々の物につくるに、形は別なれども金杖は一なり。形の異なるをば諍ふといへども、金たる事をあらそはず。門々不同なれば、いりかどをば諍へども、入理は一なり等云云。又求那跋摩云はく、諸論各異端なれども修行の理は二無し。偏執に是非有りとも達者は違諍なし等云云。又五百羅漢の真因各異なれども同じく聖理をえたり。大論の四悉檀の中の対治悉檀、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣、此等は此の善を嫌ひ、此の善をほむ。檀戒進等一々にそしり、一々にほむる、皆得道をなる。此等を以てこれを思ふに、護法・青弁のあらそい、智光・戒賢の空・中、南三北七の頓漸不定、一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、天台の五時、華厳の五教、真言教の東寺・天台の諍、浄土宗の聖道・浄土、禅宗の教外・教内、入門は差別せりといふとも実理に入る事は但一なるべきか。 
  難じて云はく、華厳の五教、法相・三論の三時、禅宗の教外、浄土宗の難行・易行、南三北七の五時等、門はことなりといへども入理一にして、皆仏意に叶ひ謗法とならずといはゞ、謗法といふ事あるべからざるか。 謗法とは法に背くという事なり。法に背くと申すは、小乗は小乗経に背き、大乗は大乗経に背く。法に背かばあに謗法とならざらん。謗法とならばなんぞ苦果をまねかざらん。此の道理にそむくこれひとつ。大般若経に云はく「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし」と。法華経に云はく「若し人信ぜず乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。涅槃経に云はく「世に難治の病三あり。一には四重、二には五逆、三には謗大乗なり」と。此等の経文あにむなしかるべき。此等は証文なり。されば無垢論師・大慢婆羅門・熈連禅師・嵩霊法師等は正法を謗じて、現身に大阿鼻地獄に堕ち、舌口中に爛れたり。これは現証なり。天親菩薩は小乗の論を作って諸大乗経をはしき。
 
平成新編御書 ―286n―