←前へ  次へ→    『顕謗法抄』
(★283n)
 されば逆縁順縁のために、先づ法華経を説くべしと仏ゆるし給へり。但し又滅後なりとも、当機衆になりぬべきものには、先づ権経をとく事もあるべし。又悲を先とする人は先づ権経をとく、釈迦仏のごとし。慈を先とする人は先づ実経をとくべし、不軽菩薩のごとし。又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし。同じく悪道に堕つるならば、法華経を謗ぜさせて堕すならば、世間の罪をもて堕ちたるにはにるべからず。「聞法生謗堕於地獄勝於供養恒沙仏者」等の文のごとし。此の文の心は、法華経をばうじて地獄に堕ちたるは、釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し、帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。問うて云はく、上の義のごとくならば、華厳・法相・三論・真言・浄土等の祖師はみな謗法に堕すべきか。華厳宗には華厳経は法華経には雲泥超過せり。法相・三論もてかくのごとし。真言宗には日本国に二の流あり。東寺の真言は法華経は華厳経にをとれり。何に況んや大日経にをいてをや。天台の真言には大日経と法華経とは理は斉等なり。印・真言等は超過せりと云云。此等は皆悪道に堕つべしや。答へて云はく、宗をたて、経々の勝劣を判ずるに二の義あり。一は似破、二は能破なり。一に似破とは、他の義は吉しとおもえども此をはす。かの正義を分明にあらはさんがためか。二に能破とは、実に他人の義の勝れたるをば弁へずして、迷って我が義すぐれたりとをもひて、心中よりこれを破するをば能破という。されば彼の宗々の祖師に似破・能破の二の義あるべし。心中には法華経は諸経に勝れたりと思へども、且く違して法華経の義を顕はさんとをもひて、これをはする事あり。提婆達多・阿闍世王・諸の外道が仏のかたきとなりて仏徳を顕はし、後には仏に帰せしがごとし。又実の凡夫が仏のかたきとなりて悪道に堕つる事これ多し。されば諸宗の祖師の中に回心の筆をかゝずば、謗法の者悪道に堕ちたりとしるべし。三論の嘉祥・華厳の澄観・法相の慈恩・東寺の弘法等は回心の筆これあるか。よくよく尋ねならうべし。問うて云はく、まことに今度生死をはなれんとをもはんに、なにものをかいとひ、なにものをか願ふべきや。
 
 
平成新編御書 ―283n―