←前へ  次へ→    『顕謗法抄』
(★281n)
 あへて余事にはあらず。而るをみだりに四十余年の文を見て、観経等の凡夫のために九品往生なんどを説きたるを、妄りに往生はなき事なりなんど押へ申すは、あにおそろしき謗法の者にあらずやなんど申すはいかに。答へて云はく、此の料簡は東土の得一が料簡に似たり。得一が云はく、未顕真実とは決定性の二乗を、仏、爾前の経にして永不成仏ととかれしを未顕真実とは嫌はるゝなり。前四味の一切には亘るべからずと申しき。伝教大師は前四味に亘りて文々句々に未顕真実と立て給ひき。さればこの料簡は古の謗法の者の料簡に似たり。但し且く汝等が料簡に随ひて尋ね明らめん。問ふ、法華已前に二乗作仏を嫌ひけるを今未顕真実というとならば、先づ決定性の二乗を仏の永不成仏と説かせ給ひし処々の経文ばかりは、未顕真実の仏の妄語なりと承伏せさせ給ふか。さては仏の妄語は勿論なり。若し爾らば、妄語の人の申すことは有無共に用いぬ事にてあるぞかし。決定性の二乗永不成仏の語ばかり妄語となり、若し余の菩薩凡夫の往生成仏等は実語となるべきならば、信用しがたき事なり。譬へば東方を西方と妄語し申す人は西方を東方と申すべし。二乗を永不成仏と説く仏は余の菩薩の成仏をゆるすも又妄語にあらずや。五乗は但一仏性なり。二乗の仏性をかくし、菩薩凡夫の仏性をあらはすは、返りて菩薩凡夫の仏性をかくすなり。有る人云はく、四十余年未顕真実とは、成仏の道ばかり未顕真実なり。往生等は未顕真実にはあらず。又難じて云はく、四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はゞ、双観経に云ふ「正覚を取らじ」「成仏より已来凡そ十劫を歴たり」等の文は未顕真実と承伏せさせ給ふか。若し爾らば、四十余年の経々にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば、法蔵比丘の成仏すでに妄語なり。若し成仏妄語ならば何れの仏か行者を迎へ給ふべきや。又かれ此の難を会通して云はん、四十余年が間は成仏はなし。阿弥陀仏は今の成仏にはあらず、過去の成仏なり等云云。今難じて云はく、今日の四十余年の経々にして実の凡夫の成仏を許されずば、過去遠々劫の四十余年の権経にても成仏叶ひがたきか。三世の諸仏の説法の儀式皆同じきが故なり。
 
平成新編御書 ―281n―