←前へ  次へ→    『顕謗法抄』
(★280n)
 一劫を具足して劫尽きなば更生まれん。是くの如く展転して無数劫に至らん」等云云。
  第三に問答料簡を明かさば、問うて云はく、五逆罪と謗法罪との軽重はしんぬ。謗法の相貌如何。答へて云はく、天台智者大師の梵網経の疏に云はく「謗とは背くなり」等云云。法に背くが謗法にてはあるか。天親の仏性論に云はく「若し憎むは背くなり」等云云。この文の心は正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり。問うて云はく、委細に相貌をしらんとおもう。あらあらしめすべし。答へて云はく、涅槃経経五に云はく「若し人有って如来は無常なりと言はん。云何ぞ是の人舌堕落せざらん」等云云。此の文の心は仏を無常といはん人は舌堕落すべしと云云。問うて云はく、諸の小乗経に仏を無常と説かるゝ上、又所化の衆皆無常と談じき。若し爾らば、仏並びに所化の衆の舌堕落すべしや。答へて云はく、小乗経の仏を小乗経の人が無常ととき談ずるは舌たゞれざるか。大乗経に向かって仏を無常と談じ、小乗経に対して大乗経を破するが舌は堕落するか。此をもてをもうに、おのれが依経には随えども、すぐれたる経を破するは破法となるか。若し爾らば、設ひ観経・華厳経等の権大乗経の人々、所依の経の文の如く修行すとも、かの経にすぐれたる経々に随はず、又すぐれざる由を談ぜば謗法となるべきか。されば観経等の経の如く法をえたりとも、観経等を破せる経の出来したらん時、其の経に随はずば破法となるべきか。小乗経を以てなぞらえて心うべし。問うて云はく、双観経等に乃至十念即得往生なんどとかれて候が、彼のけうの教への如く十念申して往生すべきを、後の経を以て申しやぶらば謗法にては候まじきか。答へて云はく、仏、観経等の四十余年の経々を束ねて未顕真実と説かせ給ひぬれば、此の経文に随ふて乃至十念即得往生等は実には往生しがたしと申す。此の経文なくば謗法となるべし。問うて云はく、或人云はく、無量義経の「四十余年未顕真実」の文はあへて四十余年の一切の経々並びに文々句々を皆未顕真実と説き給ふにはあらず。但四十余年の経々に処々に決定性の二乗を永不成仏ときらはせ給ひ、釈迦如来を始成正覚と説き給ひしを、其の言ばかりをさして未顕真実とは申すなり。
 
平成新編御書 ―280n―