←前へ 次へ→ 『唱法華題目抄』
(★228n)
始めは念仏者こぞりて不思議の思ひをなす上、念仏を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道あり、なんどのゝしり候ひしが、念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智慧つきて、各選択集を委く披見する程に、げにも謗法の書とや見なしけん、千中無一の悪義を留めて、諸行往生の由を念仏者毎に之を立つ。然りと雖も唯口にのみゆるして、心の中は猶本の千中無一の思ひなり。在家の愚人は内心の謗法なるをばしらずして、諸行往生の口にばかされて、念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを、法華経を謗ずる由を聖道門の人の申されしは僻事なりと思へるにや。一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり。失なき由を人に知らせて而も念仏計りを亦弘めんとたばかるなり。偏に天魔の計りごとなり。
問うて云はく、天台宗の中の人の立つる事あり、天台大師、爾前と法華と相対して爾前を嫌ふに二義あり。一には約部、四十余年の部と法華経の部と相対して爾前は麁なり、法華は妙なりと之を立つ。二には約教、教に麁妙を立て、華厳・方等・般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ、華厳・方等・般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名づけて麁なりと嫌へり。円頓速疾の方をば嫌はず、法華経に同じて一味の法門とせりと申すは如何。答へて云はく、此の事は不審にもする事侍るらん。然るべしとをぼゆ。天台・妙楽より已来今に論有る事に侍り。天台の三大部六十巻、総じて五大部の章疏の中にも、約教の時は爾前の円を嫌ふ文無し。只約部の時ばかり爾前の円を押しふさねて嫌へり。日本に二義あり。園城寺には智証大師の釈より起こりて爾前の円を嫌ふと云ひ、山門には嫌はずと云ふ。互ひに文釈あり、倶に料簡あり。然れども今に事ゆかず。但し予が流の義には不審晴れておぼえ候。其の故は天台大師、四教を立て給ふに四つの筋目あり。一には爾前の経に四教を立つ、二には法華経と爾前と相対して、爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌ふ事あり、三には爾前の円をば別教に摂して前三教を嫌ひ、法華の円をば純円と立つ、四には爾前の円をば法華に同ずれども、但法華経の二妙の中の相待妙に同じて絶対妙には同ぜず。
平成新編御書 ―228n―