←前へ  次へ→    『唱法華題目抄』
(★227n)
 世こぞりて上代の智者には及ぶべからざるが故に。愚者と申すともいやしむべからず、経論の証文顕然ならんには。抑無量義経は法華経を説かんが為の序分なり。然るに始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至るまで、其の年月日数を委しく計へ挙ぐれば四十余年なり。其の間の所説の経を挙ぐるに華厳・阿含・方等・般若なり。所談の法門は三乗五乗所習の法門なり。修業の時節を定むるには宣説菩薩歴劫修業と云ひ、随自意・随他意を分かつには是を随他意と宣べ、四十余年の諸経と八箇年の所説との語同じく義替はれる事を定むるには「文辞一なりと雖も義各異なり」ととけり。成仏の方は別にして往生の方は一つなるべしともおぼえず。華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経、頓悟・漸悟の法門、皆未顕真実と説かれたり。此の大部の諸経すら未顕真実なり。何に況んや浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや。其の上経々ばかりを出だすのみにあらず、既に年月日数を出だすをや。然れば、華厳・方等・般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事疑ひ無し。観経の弥陀往生に限って豈多留難故の内に入らざらんや。若し随自意の法華経の往生極楽を随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて、而も易行の中に取りても猶観経等の念仏往生は易行なりと之を立てらるれば、権実雑乱の失大謗法たる上、一滴の水漸々に流れて大海となり、一塵積もりて須弥山となるが如く、漸く権経の人も実経にすゝまず、実経の人も権経におち、権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留まり、国中に王なきが如く、人の神を失へるが如く、法華・真言の諸の山寺荒れて、諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去れば、悪鬼便りを得て乱れ入り、悪風吹いて五殻も成らしめず、疫病流行して人民をや亡ぼさんずらん。此の七八年が前までは諸行は永く往生すべからず、善導和尚の千中無一と定めさせ給ひたる上、選択には諸行を抛てよ、行ずる者は群賊と見えたりなんど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集の如く人を勧めん者は、謗法の罪によって師檀共に無間地獄に堕つべしと経にみえたりと申す法門出来したりげに有りしを、
 
平成新編御書 ―227n―