←前へ  次へ→    『唱法華題目抄』
(★222n)
 善導和尚は念仏に法華経をまじふるを雑行と申し、百の時は希に一・二を得、千の時は希に三・五を得ん。乃至千中無一と仰せられたり。何に況んや智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば、祖父の履、或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうと侍るは、是くの如く申す師も弟子も阿鼻の焔をや招かんずらんと申す。
  問うて云はく、何なるすがた並びに語を以てか、法華経を世間いゐうとむる者には侍るや、よにおそろしくこそおぼえ候へ。答へて云はく、始めに智者の申され候と御物語候ひつるこそ、法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ。末代に法華経を失ふべき者は、心には一代聖教を知りたりと思ひて而も心には権実二経を弁へず。身には三衣一鉢を帯し、或は阿練若に身をかくし、或は世間の人にいみじき智者と思はれて、而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんどして、世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失ふべしと見えて候。 
  問うて云はく、其の証拠如何。答へて云はく、法華経勧持品に云はく「諸の無智の人、悪口罵詈等し及び刀杖を加ふる者有らん。我等皆当に忍ぶべし」文。妙楽大師此の文の心を釈して云はく「初めの一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり」文。文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり。経に云はく「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ我慢の心充満せん」文。妙楽大師此の文の心を釈して云はく「次の一行は道門増上慢の者を明かす」文。文の心は悪世末法の権教の諸の比丘、我法を得たりと慢じて法華経を行ずるものゝ敵となるべしといふ事なり。経に云はく「或は阿練若に納衣にして空閑に在って自ら真の道を行ずと謂ひて人間を軽賎するもの有らん。利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き、世に恭敬せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐き、常に世俗の事を念ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出ださん。而も是くの如き言を作さん、此の諸の比丘等は利養を貪るを為ての故に外道の論議を説き、
 
 
平成新編御書 ―222n―