←前へ  次へ→    『唱法華題目抄』
(★221n)
 持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり。此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり。謗法と申すは違背の義なり。随喜と申すは随順の義なり。させる義理を知らざれども、一念も貴き由申すは違背・随順の中には何れにか取られ候べき。又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文に載せられざるか如何。其の上天台・妙楽の釈の心は、他の人師ありて法華経の乃至童子戯・一偈一句・五十展転の者を、爾前の緒経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり。然るに我が釈を作る時、機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給はんは自語相違にあらずや。故に妙楽大師、五十展転の人を釈して云はく「恐らくは人謬りて解せる者初心の功徳の大なることを測らず、而して功を上位に推りて此の初心を蔑る故に、今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす」文。文の心は謬って法華経を説かん人の、此の経は利智精進上根上智の人のためといはん事を仏をそれて、下根下智末代の無智の者の、わづかに浅き随喜の功徳を、四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕はさんとして五十展転の随喜は説かれたり。故に天台の釈には、外道・小乗・権大乗までたくらべ来
 たって、法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり。所以に阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め、耆兎仙人は一日の中に大海の水をすいほす。此くの如き得通の仙人は、小乗阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり。三明六通を得たりし小乗の舎利弗目連等は、華厳・方等・般若等の諸大乗の未断三惑の一通もなき一偈一句の凡夫には百千万倍劣れり。華厳・方等・般若経を習ひ極めたる等覚の大菩薩は、法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由、釈の文顕然なり。而るを当世の念仏宗等の人、我が身の権教の機にて実教を信ぜざる者は、方等・般若の時の二乗のごとく、自身をはぢしめてあるべき処に敢へて其の義なし。あまつさへ世間の道俗の中に、僅かに観音品・自我偈なんどを読み、適父母孝養なんどのために一日経等を書く事あれば、いゐさまたげて云はく、
 
 
平成新編御書 ―221n―