←前へ 次へ→ 『唱法華題目抄』
(★220n)
又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何れの処に候やらん、委しく承り候はゞや。又義理をも知らざる者の僅かに法華経を信じ侍るが、悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の、世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるゝは証拠あるか。又無智の者の念仏申して往生すると何に見えてあるやらんと申し給ふこそよに事あたらしく侍れ。双観経等の浄土の三部経・善導和尚等の経釈に明らかに見えて侍らん上は、なにとか疑ひ給ふべき。答へて曰く、大通結縁の者を退大取小の謗法、名字即の者と申すは私の義にあらず。天台大師の文句第三の巻に云はく「法を聞いて未だ度せず、而して世々に相値ひて今に声聞地に住する者有り。即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給ひて侍るを、妙楽大師の疏記第三に、重ねて此の釈の心を述べ給ひて云はく「但し未だ品に入らず倶に結縁と名づくるが故に」文。文の心は大通結縁の者は名字即の者となり。又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云はく「若しは信若しは謗、因って倒れ因って起く。喜根を謗ずと雖も後要ず度を得るが如し」文。文の心は大通結縁の者の三千塵点劫を経るは謗法の者なり。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す。五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり。又初随喜の位の先の名字即と申す釈もあり。疏記第十に云はく「初めに法会にして聞く、是れ初品なるべし。第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文。文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内、第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。其の上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人、大経の九人の先の四人は解無き者なり。解説は化他、後の五人は解有る人と証し給へり。疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」と。又云はく「一向未だ凡位に入らず」文。文の心は五種法師は観行五品と釈すれども、又五品已前の名字即の位とも釈するなり。是等の釈の如くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の一偈一句一念随喜の者、五十展転等の内に入るかと覚え候。何に況んや此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委しくとかれたり。
平成新編御書 ―220n―