←前へ  次へ→    『唱法華題目抄』
(★219n)
 但し若し御物語の如く侍らば、すこし不審なる事侍り。大通結縁の者をあらあらうちあてがひ申すには、名字・観行の者とは釈せられて侍れども、正しく名字即の位の者と定められ侍る上、退大取小の者とて法華経をすてゝ権教にうつり、後には悪道に堕ちたりと見えたる上、正しく法華経を誹謗して之を捨てし者なり。設ひ義理を知るやうなる者なりとも、謗法の人にあらん上は、三千塵点・無量塵点も経べく侍るか。五十展転一念随喜の人々を観行初随喜の位の者と釈せられたるは、末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入るべからずと仰せ候か。是を天台・妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるゝほどにては、又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか。所詮仰せの御義を委しく案ずれば、をそれにては候へども、謗法の一分にやあらんずらん。其の故は法華経を我等末代の機に叶ひ難き由を仰せ候は、末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるゝにや。若しさやうに侍らば、末代の一切衆生の中に此の御詞を聞いて、既に法華経を信ずる者も打ち捨て、未だ行ぜざる者も行ぜんと思ふべからず。随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん。若し謗法の者に一切衆生なるならば、いかに念仏を申させ給ふとも、御往生は不定にこそ侍らんずらめ。又弥陀の妙号を唱へ、極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは何なる経論を証拠として此の心はつき給ひけるやらん。正しくつよき証文候か。若しなくば其の義たのもしからず。前に申し候ひつるがごとく法華経を信じ侍るは、させる解なけれども三悪道には堕つべからず候。六道を出づる事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか。但し悪知識に値ひて法華経随喜の心を云ひやぶられて候はんは力及ばざるか。
  又仰せに付いて驚き覚え侍り。其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶ひ難き由を智者申されしかば、さかと思ひ侍る処に、只今の仰せの如くならば、弥陀の妙号を唱ふとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上、悪道に堕つべきよし承るは、ゆゝしき大事にこそ侍れ。抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり。
 
 
平成新編御書 ―219n―