←前へ  次へ→    『十法界明因果抄』
(★207n)
 人をして等同の義を学ばしめ、法華経に遷らざるは是謗法なり。亦偶円機有る人の法華経を学ぶをも、我が法に付け、世利を貪るが為に、汝が機は法華経に当らざる由を称して、此の経を捨て権経に遷らしむるは是大謗法なり。此くの如き等は皆地獄の業なり。
  人間に生ずること過去の五戒は強く、三悪道の業因は弱きが故に人間に生ずるなり。亦当世の人も五逆を作る者は少なく、十悪の盛んに之を犯す。亦偶後世を願ふ人の十悪を犯さずして善人の如くなるも、自然に愚痴の失に依って身口は善く意は悪しき師を信ず。但我のみ此の邪法を信ずるに非らず。国を知行する人、人民を聳めて我が邪法に同ぜしめ、妻子眷属所従の人を以て亦聳め従へ我が行を行ぜしむ。故に正法を行ぜしむる人に於て結縁を作さず。亦民所従等に於ても随喜の心を至さしめず。故に自他共に謗法の者と成りて、修善止悪の如き人も自然に阿鼻地獄の業を招くこと、末法に於て多分之有るか。
  阿難尊者は浄飯王の甥、斛飯王の太子、堤婆達多の舎弟、釈迦如来の従子なり。如来に仕へ奉りて二十年、覚意三昧を得て一代聖教を覚れり。仏入滅の後、阿闍世王、阿難に帰依し奉る。仏滅の後四十年の比、阿難尊者一の竹林の中に至るに一の比丘有り。一の法句の偈を誦して云はく、若し人生じて百歳なりとも水の潦涸を見ずんば生じて一日にして之を睹見することを得るに如かず」已上。 阿難此の偈を聞き比丘に語りて云はく、此仏説に非ず、汝修行すべからず。爾の時に比丘阿難に問うて云はく、仏説は如何。阿難答へて云はく、若し人生じて百歳なりとも生滅の法を解せずんば、生じて一日にして之を解了することを得んには如かず已上。 此の文仏説なり。汝が唱ふる所の偈は此の文を謬りたるなり。爾の時に比丘、此の偈を得て本師の比丘に語る。本師の云はく、我汝に教ふる所の偈は真の仏説なり。阿難が唱ふる所の偈は仏説に非ず。阿難年老衰して言錯謬多し、信ずべからずと。此の比丘亦阿難の偈を捨てゝ本の謬りたる偈を唱ふ。阿難又竹林に入りて之を聞くに、我が教ふる所の偈に非ず。
 
平成新編御書 ―207n―