←前へ 次へ→ 『二乗作仏事』
(★204n)
答ふ、当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云ふか。華厳宗の心は法華と華厳とに於て同勝の二義を存す。同は法華・華厳の所詮の法門之同じとす。勝は二義あり。古の華厳宗は教主と対菩薩衆等の勝の義を談ず。近代の華厳宗は華厳と法華とに於て同勝の二義有りと云云。其の勝に於て又二義ありといふ。迹門は華厳と同勝の二義あり。華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり。彼の円も判麁此の円も判麁の故なり。籤の二に云はく「故に二妙を須て以て三法を妙ならしむ。故に諸味の中に円融有りと雖も全く二妙無きなり」と。私志記に云はく「昔の八の中の円は今の相対の円と同じ」と云へり。是は同なり。記の四に云はく「法界を以て之を論ずれば華厳に非ざる無し。仏慧を以て之を論ずれば法華に非ざる無し」云云。又云はく「応に知るべし、華厳の尽未来際は即ち是此の経の常在霊山なり」云云。此等の釈は爾前の円と法華の相待妙と同ずる釈なり。迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり、籤の十に云はく「此の法華経は開権顕実開迹顕本す。此の両意は永く余経に異なれり」と云へり。記の四に云はく「若し仏慧を以て法華と為さば即」等云云。此の釈は仏慧を明かすは爾前法華に亘り、開会は唯法華に限ると見えたり。是は勝なり。爾前の無得道なる事は分明なり。其の故は二妙を以て一法を妙ならしむるなり。既に爾前の円には絶待の一妙を欠く、衆生も妙の仏と成るべからざる故に。籤の三に云はく「妙変じて麁と為る」等の釈是なり。華厳の円が変じて別と成ると云ふ意なり。本門は相待絶待二妙倶に爾前に分無し、又迹門にも之無し。爾前迹門は異なれども二乗は見思を断じ菩薩は無明を断ずと申すことは一往之を許して再往は之を許さず。本門寿量品の意は爾前迹門に於て一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得べきなり。此の道理を弁へざるの間、天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見て永異の釈を忘れ、結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり。華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ちぬ。結句は善導等の釈の見を出でず。結句後には謗法の法然に同じて「師子身中の虫の自ら師子の食らふが如し」文。 仁王経の下に
平成新編御書 ―204n―