←前へ  次へ→    『二乗作仏事』
(★203n)
 南岳大師は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙の義を存せり。天台智者大師は之を依用す。此に於て天台宗の人は華厳・法華同等の義を存するか。又澄観「心仏及衆生」の文に於て一心覚不覚の義を存するのみに非ず、性悪の義を存して云はく、澄観の釈に「彼の宗には此を謂って実と為す、此の宗の立義理通せざる無し」等云云。此等の法門許すべきや不や。答へて云はく、弘の一に云はく「若し今家の諸の円の文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」。同五に云はく「今文を解せずんば如何ぞ心造一切三無差別を消解せん」文。記の七に云はく「忽ち都て未だ性悪の名を聞かず」と云へり。此等の文の如くんば、天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか。又震旦の人師の中には天台の外には性悪の名目あらざりけるか。又法華経に非ずんば一念三千の法門談ずべからざるか。天台已後の華厳の末師並びに真言宗の人性悪を以て自宗の依経の詮と為すは天竺より伝はりたりけるか、祖師より伝はるか。又天台の名目を偸んで自宗の内証と為すと云へるか。能く能く之を験すべし。
  問ふ、性悪の名目は天台一家に限るべし。諸宗には之無し。若し性悪を立てずんば、九界の因果を如何が仏界の上に現ぜん。答ふ、義例に云はく「性悪若し断ずれば」等云云。
  問ふ、円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文を引くは彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか。答へて云はく、天台宗の人の中には爾前の円と法華の円と同の義を存す。
  問ふ、六十巻の中に前三教の文を引いて円義を釈せるは文を借ると心得、爾前の円の文を引いて法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや。若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の証拠に華厳の「菩薩於生死」等の文を引けるをば、妙楽釈して云はく「還って教味を借りて以て妙円を顕はす」と。此の文は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや。若し爾らば「心仏及衆生」の文を一念三千の証拠に引く事は之を借れるにて有るべし。
 
平成新編御書 ―203n―