←前へ 次へ→ 『二乗作仏事』
(★202n)
本文は一処は別教、一処は円教、一処は通教に似たり。釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたまふ故なり。阿難尊者の結集する経にては一処は純別、一処は純円に書き、別円を一字に含する義をば法華にて書きけり。法華にして爾前の経の意を知らしむるなり。若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の心を知るべからざるなり。又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有るべからず。爾前の経は深経なればと云って浅経の意をば顕はさず、浅経なればと云って又深義を含まざるにも非ず。法華経の意は一々の文字は皆爾前経の意を顕はし、法華経の意をも顕はす。故に一字を読めば一切経を読むなり。一字を読まざるは一切経を読まざるなり。若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かるべし。滅後に一切経を読むべきの様は華厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕はし、観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕はすべし。諸経も又以て此くの如し。而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁へず、一経を講して各我得たりと謂ひ、又超過諸経の謂ひを成せるは曽て一経の意を得ざるのみに非ず、謗法の罪に堕するか。
問ふ、天竺の論師・震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此くの如く意得たる論師人師之有るか。答ふ、無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり。此等は粗此の意を釈すとは見えたれども天台の如く分明には見えず。天親菩薩の法華論又以て此くの如し。震旦国に於ては天台以前の五百年の間には一向に此の義無し。玄の三に云はく「天竺の大論尚其の類に非ず」云云。籤の三に云はく「一家の章疏は理に附し教に憑り、凡そ立つる所の義他人の其の所弘に随ひ偏に己が典を讃するに同じからず。若し法華を弘むるに偏に讃せば尚失なり。況んや復余をや」文。何となれば既に開権顕実と言ふ、何ぞ一向に権を毀るべきや。華厳経の「心仏及衆生是三無差別」の文は、華厳の人師此の文に於て一心覚不覚の三義を立つるは源起信論の名目を借りて此の文を釈するなり。
平成新編御書 ―202n―