←前へ  次へ→    『二乗作仏事』
(★201n)
 籤の十に「又一々の位に皆普賢行布の二門有り、故に知んぬ、兼ねて円門を用ひて別に摂す」と釈するなり。此の意にて爾前に得道無しと云ふなり。二には阿難結集の時多羅葉に注す、一段は純別、一段は純円に書けるなり。方等般若も此くの如し。此の時は爾前の純円に書ける処は粗法華に似たり。「住の中には多く円融の相を明かす」等と釈するは此の意なり。天台智者大師は此の道理を得給ひし故に他師の華厳など総じて爾前の経を心得しには、たがひ給へるなり。此の二の法門をば如何として天台大師は心得給ひしぞとさぐれば、法華経の信解品等を以て一々の文字、別円の菩薩及び四教三教なりけりとは心得給ひしなり。又此の智恵を得るの後、彼等の経に向かって見る時は、一向に別、一向に円等と見えたる処あり。阿難結集後のしはざなりけりと見給へるなり。天台一宗の学者の中に此の道理を得ざるは、爾前の円と法華の円と始終同義と思ふ故に、一処のみ円教の経を見て一巻二巻等純円の義を存す故に、彼の経等に於て成仏往生の義理を許す人々是多きなり。華厳・方等・般若・観経等の本文に於て、阿難円経の巻を書くの日に即身成仏云云、即得往成等とあるを見て、一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思ひたり。阿難結集已前の仏口より出だす所の説教にて意を案ずれば、即身成仏・即得往成の裏に歴劫修行・永不往生の心を含めり。句の三に云はく摂論を引いて云はく「了義経は文に依って義を判ず」等と云ふ意なり。爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖くべしと云ふ事は是なり。記の三に云はく「法華已前は不了義なる故に」と云へり、此の心を釈せるなり。籤の十に云はく「唯此の法華のみ前教の意を説き今経の意を顕はす」と、釈の意は是なり。
  抑他師と天台との意の殊なる様は如何と云ふに、他師は一々の経々に向かって彼の経々の意を得たりと謂へり。天台大師は法華経に仏四十余年の経々を説き給へる意をもって諸経を釈する故に、阿難尊者の書きし所の諸経の本文にたがひたる様なれども仏意に相叶ひたるなり。且く観経の疏の如き経説には見へざれども一字に於て四教を釈す。
 
平成新編御書 ―201n―