←前へ  次へ→    『二乗作仏事』
(★200n)
 
 0028 二乗作仏事   (正元二年  三九歳)
 
  爾前得道の旨たる文。経に云はく「見諸菩薩」等云云。又云はく「始見我身」等。此等の文の如きは菩薩初地初住に叶ふ事有ると見えたるなり。故に「見諸菩薩」の文の下には「而我等不預斯事」と。又「始見」の文の下には「除先修習」等云云。此は爾前に二乗作仏無しと見えたる文なり。
  問ふ、顕露定教には二乗作仏を許すや。顕露不定教には之を許すか。秘密には之を許すか。爾前の円には二乗作仏を許すや。別教には之を許すか。答ふ、所詮は重々の問答有りと雖も皆之を許さざるなり。所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許されざるか。衆生無辺誓願度の願の欠くるが故なり。釈は菩薩の得道と見えたる経文を消する許りなり。所詮華・方・般若の円の菩薩も初住に登らず。又凡夫二乗は勿論なり。「一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」の文の下にて此の事は意得べきなり。問ふ、円の菩薩に向かいては二乗作仏を説くか。答ふ、説からざるなり。「未だ曽て、人に向かって此くの如き事を説かず」の釈に明らかなり。
  問ふ、華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや。答ふ、次下の経に云はく 二十五 「如来智慧の大薬王樹は唯二所を除き生長することを得ず、所謂声聞・縁覚なり」等云云。二乗作仏を許さずと云ふ事分明なり。若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか。其の上爾前の経は法華経を以て定むべし。既に除先修習等云云と云ふ。華厳は菩薩に向かって二乗作仏無しと云ふ事分明なり。方等般若も又以て此くの如し。総じて爾前の円に意得べき様二有り。一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ一々の音に必ず四教三教を含ませ給へるなり。故に純円の円は爾前経には無きなり。故に円と云へども今の法華経に対すれば別に摂すと云ふなり。
 
平成新編御書 ―200n―