←前へ  次へ→    『爾前二乗菩薩不作仏事』
(★181n)後
 能善く一切諸法、本来涅槃なりと知るを以て、是の故に涅槃に入らず。一切の善根を捨つる闡提に非ず。何を以ての故に。大慧、彼の一切の善根を捨つる闡提は、若し諸仏善知識等に値ひたてまつれば菩提心を発こし諸の善根を生じ便ち涅槃を証す」等云云。此の経文に「若し諸の衆生涅槃に入らざれば我も亦涅槃に入らじ」等云云。前四味の諸経に二乗作仏を許さず。之を以て之を思ふに、四味諸経の四教の菩薩の作仏も有り難きか。華厳経に云はく「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等云云。一切の菩薩必ず四弘誓願を発すべし。其の中の衆生無辺誓願度の願之を満足せざれば、無上菩提誓願証の願又成じ難し。之を以て之を案ずるに、四十余年の文二乗に限らば菩薩の願又成じ難きか。
  問うて云はく、二乗作仏之無ければ菩薩の成仏も之無き正しき証文如何。答へて云はく、涅槃経三十六に云はく「仏性は是衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず。是の故に名づけて信不具足と為す」 三十六本三十二と。此の文の如くんば、先四味の諸菩薩皆一闡提の人なり。二乗作仏を許さず、二乗の作仏を成ぜざるのみに非ず、将又菩薩の作仏も之を許さゞる者なり。之を以て之を思うに、四十余年の文二乗作仏を許さずんば菩薩の成仏も又之無きなり。一乗要決の中に云はく「涅槃経の三十六に云はく、仏性は是衆生に有りと信ずと雖も必ず一切皆悉く之有らず。是の故に名づけて信不具足と為す 三十六本三十二と。第三十一に説く、一切衆生及び一闡提に悉く仏性有りと信ずるを、菩薩の十法の中の第一の信心具足と名づく 三十六本第三十と。一切衆生悉有仏性を明かすは是少分に非ず。若し猶堅く少分の一切なりと執せば唯経に違するのみにあらず亦信不具なり。何に因って楽って一闡提と作るや。此に由って全分の有性を許すべし。理亦一切の成仏を許すべし」と。
  慈恩の心経玄賛に云はく「大悲の辺に約すれば常に闡提と為る。大智の辺に約すれば亦当に作仏すべし。宝公の云はく、大悲闡提は是前経の所説なり。前説を以て後説を難ずべからざるなり。諸師の釈意大途之に同じ」文。
 
平成新編御書 ―181n―