←前へ 次へ→ 『十法界事』
(★179n)
長者の見には則ち無し。此くの如き破文皆是爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難に非ざるなり。但し「七方便並びに究竟の滅に非ず。又「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」との釈は、円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅」「即不称理」と云ふなりと云はゞ、金論の「偏に清浄の真如を指す、尚小の真を失へり、仏性安んぞ在らん」と云ふ釈をば云何が会すべき。但し此の「尚小の真を失へり」の釈は常には出だすべからず、最も秘蔵すべし。
但し妙法蓮華経皆是真実の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りといふは、此は是迹門を爾前に対して真実と説くか。而も未だ久遠実成を顕はさず、是則ち彼の未顕真実の分域なり。所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを、仏の答ふるに未顕真実の言を以てす。
又涌出品の中に弥勒疑って云はく「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上。仏答へて云はく「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得たりと謂へり、我実に成仏してより以来」已上。我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云ふに非ずや。是の故に記の九に云はく「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言ふは且く昔の権に寄す。若し果門に対すれば権実倶に是随他意なり」已上。此の釈は明らかに知んぬ、迹門をも尚随他意と云ふなり。寿量品の皆実不虚を天台釈して云はく「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上。記の九に云はく「故に知んぬ、迹の実は本に於て猶虚なり」已上。迹門既に虚なること論に及ぶべからず。但し皆是真実とは、若し本門に望むれば迹は是虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず、故に本迹両門倶に真実と言ふなり。例せば迹門法説の時、譬説・因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し、故に名づけて顕と為すが如し。記の九に云はく「若し方便教は二門倶に虚なり。因門開し竟はりて果門に望むれば則ち一実一虚なり。本門顕はれ竟はれば則ち二種倶に実なり」已上。
平成新編御書 ―179n―