←前へ  次へ→    『十法界事』
(★178n)
 但断無明と云ふが故に仮に実報寂光を立つと雖も、而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す。然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し。迹門には但是始覚の十界互具を説きて未だ必ずしも本覚本有の十界互具を明さず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免るゝことを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。又無始色心常住の義無し。但し「是法住法位」と説くことは、未来常住にして是過去常に非ざるなり。本有の十界互具を顕はさざれば本有大乗菩薩界無きなり。故に知んぬ、迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず、六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。故に涌出品に至って爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫半日の如しと謂へり」と説く。是則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二の義に迷ふが故なり。
  爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起こるが如し。未だ久遠を知らざるを以て而も惑者の本と為すなり。故に四十一品断の弥勒、本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず。既に一分の無始の無明を断じて而も十界の一分の無始の法性を得たり、何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。設ひ等覚の菩薩を知らざれども争でか当機結縁の衆を知らざらん。「乃し一人をも識らず」の文は最も未断三惑の故か。是を以て本門に至り則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加へ、又天人修羅に摂し「貪著五欲、妄見網中・為凡夫顛倒」と説く。釈の文には「我坐道場、不得一法」と云ふ。蔵通両仏の見思断も、別円二仏の無明断も、並びに皆見思無明を断ぜず。故に随他意と云ふ。所化の衆生三惑を断ずと謂へるは是実の断に非らず。答への文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか。天台は有無共に破すなり。開善は爾前に於て無声聞を判じ、光宅は法華に於て有声聞を判ず。故に有無共に難有り。天台は爾前には則ち有り、今経には則ち無し。所化の執情には則ち有り、
 
平成新編御書 ―178n―