←前へ 次へ→ 『十法界事』
(★177n)
故に解釈に云はく「初後の仏慧円頓の義斉し」已上。或は云はく「故に始終を挙ぐるに意仏慧に在り」と。若し此等の説相経釈共に非義ならば正直捨権の説・唯以一大事の文・妙法華経皆是真実の証誠皆以て無益なり。皆是真実の言は豈一部八巻に亘るに非ずや。釈迦多宝十方分身の舌相至梵天の神力・三世諸仏の誠諦不虚の証誠空しく泡沫に同ぜん。但し小乗の断常の二見に至っては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず。小益無きに非ざるなり。又「七方便並びに究竟の滅に非ず」の釈、或は復「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」とは、又是円実の大益に対して七方便の益を下して並びに非究竟滅・即不称理と釈するなり。
第四重の難に云はく、法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中に捧ぐるが如し。所以は何ん。迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門爾前亡じ、観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず。此は是如来所説の聖教、従浅至深して次第に迷ひを転ずるなり。然れども如来の説は一人の為にせず。此の大道を説きて迷情除かざれば生死出で難し。若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳、漸は則ち三味、秘密と不定とは前四味に亘る。蔵は則ち阿含方等に亘る、通は是方等般若、円別は是則ち前四味の中に鹿苑の説を除く。此くの如く八機各々不同なれば教説も亦異なるなり。四教の教主亦是不同なれば当教の機根余仏を知らず。故に解釈に云はく「各々仏独り其の前に在すと見る」已上。人天の五戒十善・二乗の四諦十二・菩薩の六度三祇百劫或は動喩塵劫或は無量阿僧祇劫・円教の菩薩の初発心時便成正覚。明らかに知んぬ、機根別なるが故に説教も亦別なり。教別なるが故に行も亦別なり。行別なるが故に得果も別なり。此則ち各別の得益にして不同なり。
然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたまふ。爾の時八機並びに悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り、互ひに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を、二乗は又菩薩界を具せず。三界の人天の如きは成仏の望み絶えて二乗菩薩の断惑即ち是自身の断惑なりと知らず、二乗四乗の智慧は四悪趣を脱るゝに似たりと雖も互ひに界々を隔て而も皆是一体なり。昔の経は二乗は但自界の見思を断除すと思ひて六界の見思を断ずることを知らず。菩薩も亦是くの如し。自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。真実に証する時、一衆生即十衆生、十衆生即一衆生なり。若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ずべからず。是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明かす。故に即ち円仏と成るなり。爾前当分の益を嫌ふこと無きが故に「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我が身を見る」と説けり。又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず。故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏の本懐なり。故に「彼の土に於て是の経を聞くことを得」と説く。既に「彼の土に聞くことを得」と云ふ。故に知んぬ、爾前の諸経には方便土無し。故に実には実報並びに常寂光無し。菩薩の成仏を明かす。故に実報寂光を仮立す。然れども菩薩に二乗を具す。二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり。衆生無辺誓願度も満ぜず。二乗の沈空尽滅は即ち是菩薩の沈空尽滅なり。凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出づべからず。尚下劣の方便土を明かさず。況んや勝れたる実報寂光を明かさんや。実に見思を断ぜば何ぞ方便を明かさざらん。菩薩実に実報寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無からん。
平成新編御書 ―177n―