←前へ  次へ→    『十法界事』
(★175n)
 又妙楽大師云はく「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」文。此の釈の意は、小乗の観心は小乗の理に称はざるのみ。又天台の文句第九に云はく「七方便並びに究竟の滅に非ず」已上。此の釈は是爾前の前三教の菩薩は実には不成仏と云へるなり。但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し、正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云ふは、天台宗に於て三種の教相有り。第二の化導の始終の時、過去の世に於て法華結縁の輩有り。爾前の中に於て且く法華の為に三乗当分の得道を許す。所謂種熟脱の中の熟益の位なり。是は尚迹門の説なり。本門観心の時は是実義に非ず。一往許すのみ。其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷ひ、一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ずべからず。故に釈に云はく「円乗の外を名づけて外道と為す」文。又「諸善男子楽於小法得薄垢重者」と説く。若し爾れば経釈共に道理必然なり。答ふ、執難有りと雖も其の義不可なり。所以は如来の説教は機に備はりて虚しからず。是を以て頓等の四教、蔵等の四教は八機の為に設くる所にして得益無きに非ず。故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く。誠に知んぬ、「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も而も三法四果の益無きに非ず。但是速疾頓成と歴劫迂回との異なりなるのみ。是一向に得道無きに非ざるなり。是の故に或は三明六通も有り、或は普現色身の菩薩も有り、縦ひ一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜざれども既に折智を以て見思を断ず。何ぞ二十五有を出でざらん。是の故に解釈に云はく「若し衆生に遇って小乗を修せしめば我則ち慳貪に堕せん。此の事不可なりと為す。祇二十五有を出づ」已上。
  当に知るべし、此の事を不可と説くと雖も而も出界有り。但是不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕はさずと雖も何ぞ小分の空解を起こさざらん。若し空智を以て見思を断ぜずと云はゞ開善の無声聞の義に同ずるに非ずや。況んや今経は正直捨権純円一実の説なり。諸の爾前の声聞の得益を挙げて「諸漏已に尽きて復煩悩無し」と説き、又「実に阿羅漢を得、此の法を信ぜず是の処有ること無し」と云ひ、又「三百由旬を過ぎて一城を化作す」と説く。
 
平成新編御書 ―175n―