←前へ 次へ→ 『総在一念抄』
(★115n)
過の辺に従って説いて倶に麁人と名づく」云云。仍って余経をば妙法蓮華経と名づけざるなり。
問うて云はく、一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むねの中に収めて必ず出離の人と成るなり。此の経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説く不軽軽毀の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云はく「信謗彼此決定成仏」等云云。
問うて云はく、成仏の時の三身とは其の義如何。答ふ、我が身の三千円融せるは法身なり。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふなり。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで、之を現じて衆生を利益するを応身と云ふなり。此の三身を法華経に説いて云はく「如是相如是性如是体」云云。相は応身、性は報身、体は法身なり。此の三身は無始より已来我等に具足して欠減なし。然りと雖も迷ひの雲に隠されて是を見ず。悟りの仏と云ふは此の理を知る法華経の行者なり。此の三身は昔は迷ふて覚らず知らず、仏の説法に扣かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふなり。此の三身の理をば我等具足して一分も迷はず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふなり。若し爾らば本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是を以て天台釈して云はく「本迹殊なりと雖も不思議一なり」云云。
悟りとは只此の理体を知るを悟りと云うなり。譬へば庫蔵の戸を開いて宝財を得るが如し。外より来たらず、一心の迷ひの雲晴れぬれば、三世常住の三身三諦の法体なり。鏡に塵積もりぬれば形現ぜず、明らかなれば万像を浮かぶるが如し。塵の去る事は人の磨くによる、像の浮かぶ事は磨くに非ずばならじ。若し爾れば転迷覚悟は行者の所作による。三千三諦三身の理体は全く人の所作に非ず、只是本有なり。また迷ひを修行する事は人の作なりといへども、但迷ひの去る処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し、全く闇の去るところを見ず。
平成新編御書 ―115n―