←前へ 次へ→ 『総在一念抄』
(★113n)
此の動の念は全く三諦なり。三諦とは心の体は中なり、起こる所の念は仮なり、念に自性無きは空なり。此の三観成就する時、動ずる念は即不動念と成るなり。是の無明即明と観ずるを唯識観と云ふなり。縦ひ唯識観を成すといへども終には実相観の人に成るなり。故に義例 妙楽釈 に云はく「本末相映じ事理不二なり」と云へり。本とは実相観、末とは唯識観、事とは唯識観、理とは実相観なり。此の不思議の観成ずる時、流転生死一時に断壊して果位に登るなり。是を事理体一の不思議の総在一念と云ふなり。
此の性具を顕はして観音は三十三身を顕はし、此の理具を照らして妙音は三十四身を現ずる者なり。若し然らずんば仏の分身、薩・の化身、之を現ずるに由無し。又此の理を得ざる時は胎金両部の千二百余尊、大日の等流身・変化身も更に以て意得難し。是等の法門は性具の一念の肝要なり。秘蔵すべし秘蔵すべし。
此の一念三千を天台釈して云はく「夫一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千、一念の心に在り。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」云云。介爾とは妙楽釈して云はく「細念を謂ふなり」云云。意はわずかにと云ふなり。仍って意得べき様は、次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末なり。是思議の法門なり。不思議を以て云ふ時は、一心の全体十界三千と成る故に、取り別つべき物にもあらず、表裏も之無し。一心即三千、三千即一心なり。譬へば不覚の人は氷の外に水ある様に是を思ふ。能く能く心得る人は氷即水なり。故に一念と三千と差別なく一法と心得べし。仍って天台釈して云く「只心是一切法、一切法是心なり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異に非ず、玄妙深絶なり。識の識る所に非ず、言の言ふ所に非ず、所以に称して不可思議境と為す。意茲に在り」云云。故に一念は一念に非ず即三千なり、三千は三千に非ず即一念なり。之に依って事理体一修性不二の法門なり。此の一念三千の不思議は国土世間に三千を具するが故に、草木瓦石も皆本有の三千を具して円満の覚体なり。
平成新編御書 ―113n―