←前へ  次へ→    『総在一念抄』
(★112n)
 次に動揺して一切の境界に向かふとは、水の風に吹かれて動ずれども、波とも泡とも見分けざるが如し。又動揺して善悪の境界に対して喜ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁ふとは、水の波涛と顕はれて高く立ち上るが如し。次に来生の色報を獲得するとは、波涛の岸に打ちあげられて、大小の泡となるが如し。泡消ゆるは我等が死に還るが如し、能く能く思惟すべし。波と云ひ泡と云ふも一水の所為なり、是は譬へなり。法に合せば、最初の一念展転して色報を成す、是を以て外に全く別に有るにあらず、心の全体が身体と成るなり。相構へて各別には意得べからず。譬へば是水の全体寒じて大小の氷となるが如し。仍って地獄の身と云ひて、洞然猛火の中の盛んなる焔となるも、乃至仏界の体と云ひて、色相荘厳の身となるも、只是一心の所作なり。之に依って悪を起こせば三悪の身を感じ、菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずるなり。是を以て一心の業感の氷にとぢられて、十界とは別れたるなり。故に十界は源其の体一にして只是一心なり。
  一物にて有りける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す。是くの如く十界互ひに具して十界即百界と成るなり。此の百界の一界に各々十如是あるが故に百界は千是如となるなり。此の千如是を衆生世間にも具し、五陰世間にも具し、国土世間にも具せるが故に、千如是は即ち三千となれり。此の三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全く欠減無し。此の一念即色身となる故に、此の身は全く三千具足の体なり。是を一念三千の法門と云ふなり。
  之に依って地獄界とて恐るべきにあらず、仏界とて外に尊ぶべきにあらず、此の一身に具して事理円融せり。全く余念無く不動寂静の一念に住せよ。上に云ふところの法門、是を観ずるを実相観と云ふなり。余念は動念なり、動念は無明なり、無明は迷ひなり。此の観に住すれば此の身即本有の三千と照らすを仏とは云ふなり。是を以て妙楽大師云はく「当に知るべし、身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ふて、一身一念法界に遍し」云云。若し此の観に堪へざる人は余の観に移りて最初の一念の起こる心を観ずべし。起こる心とは寂静の一念動じて迷ひ初むる心なり。
 
 
平成新編御書 ―112n―