←前へ  次へ→    『一念三千法門』
(★108n)
 凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず。委しき義を知らざる人、毘盧の頂上をふむなんど悪口す、大なる僻事なり。
  一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云ふ事あり。委しく申すに及ばず候。此の三観を心得すまし成就したる処を、華厳経に「三界唯一心」云云。天台は「諸水入海」とのぶ。仏と我等と総て一切衆生理性一にてへだてなきを平等大慧と云ふなり。平等と書いてはおしなべてと読む。此の一心三観・一念三千の法門諸経にたえてこれなし。法華経に遇はざれば争でか成仏すべきや。余経には六界八界より十界を明かせどもさらに具を明かさず。法華経は念々に一心三観・一念三千の謂れを観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出だされ、無明の雲晴れて法性の月明らかに、妄想の夢醒めて本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身煩悩具足の身、即ち本有常住の如来となるべし。此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す。此の時法界を照らし見れば、悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり。されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり。此の時は十方世界皆寂光浄土にて、何れの処をか弥陀・薬師等の浄土とは云はん。是を以て法華経に「是の法、法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふ。さては経を読まずとも、心地の観念計りにて成仏すべきかと思ひたれば、一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納まれり。妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納めて候ひけり。天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵、三世の如来の証得したまふ所なり」と釈したり。さて此の妙法蓮華経を唱ふる時、心中の本覚の仏顕はる。我等が身と心をば蔵に譬へ、妙の一字を印に譬へたり。天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く、之を称して妙と為す。権実の正軌を示す、故に号して法と為す。久遠の本果を指す、之を喩ふるに蓮を以てす。不二の円道に会す、之を譬ふるに華を以てす。声仏事を為す、之を称して経と為す」と釈し給ひ、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり。又妙とは十界・十如・権実の法妙」云云。経の題目を唱ふると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思ひ給ふべし。されども天台止の二に「而於説黙」と云へり。説とは経、黙とは観念なり。
 
 
平成新編御書 ―108n―