←前へ  次へ→    『一念三千法門』
(★107n)
 相・性・体・力以下の十なれば、十法界皆仮諦と申して仮の義なり。是を読み観ずる時は我が身即応身如来なり。又は解脱とも申す。第三に相如是と云ふは、中道と申して仏の法身の形なり。是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり、又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す。此の三を法・報・応の三身とも、空・仮・中の三諦とも、法身・般若・解脱の三徳とも申す。此の三身如来全く外になし。我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり。是をしるを如来とも聖人とも悟りとも云ふ。知らざるを凡夫とも衆生とも迷ひとも申す。
  十界の衆生各互ひに十界を具足す、合すれば百界なり。百界に各々十如を具すれば千如なり。此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり。百界と顕はれたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり。千如は総て空の義なれば空諦の一なり。三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり。法門多しと雖も但三諦なり。此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり。始めの三如是は本覚の如来なり、終はりの七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり。本と申すは仏性、末と申すは未顕の仏、九界の名なり。究竟等と申すは妙覚究竟の如来と、理即の凡夫なる我等と差別なきを究竟等とも、平等大慧の法華経とも申すなり。始めの三如是は本覚の如来なり。本覚の如来を悟り出だし給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が能生の子なり。止の一に云はく「止は即ち仏の母、観は即ち仏の父なり」云云。譬へば人十人あらんずるが面々に蔵々に宝をつみ、我が蔵に宝のある事を知らず、かつへ死しこゞへ死す。或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出だすが如し。九人は終に知らず。然るに或は教へられて食し、或はくゝめられて食するが如し。弘の一の「止観の二字は正しく聞体を示す」と聞かざる者は本末究竟等も徒か。子なれども親にまさる事多し。重華はかたくなはしき父を敬ひて賢人の名を得たり。沛公は帝王と成りて後も其の父を拝す。其の敬はれたる父をば全く王といはず、敬ひし子をば王と仰ぐが如し。其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出だし給へり。
 
 
平成新編御書 ―107n―