←前へ 次へ→ 『一念三千法門』
(★106n)後
0017 一念三千法門 (正嘉二年 三七歳)
法華経の余経に勝れたる事何事ぞ。此の経に一心三観・一念三千と云ふ事あり。薬王菩薩漢土に出世して天台大師と云はれ、此の法門を覚り給ひしかども、先づ玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども、此の一念三千の法門をば談じ給はず、百界千如の法門計りなり。御年五十七の夏四月の比、荊州玉泉寺と申す処にて、御弟子章安大師に教へ給ふ止観と申す文十巻あり。上四帖に猶秘し給ひて、但六即四種三昧等計りなり。五の巻に至りて十境・十乗・一念三千の法門を立て「夫一心に具す」等云云。是より二百年後に妙楽大師釈して云はく「当に知るべし、身土一念の三千なり。故に成道の時此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」云云。此の一念三千・一心三観の法門は、法華経の一の巻の十如是より起これり。文の心は百界千如三千世間云云。さて一心三観と申すは、余宗は如是とあそばす。是僻事にて二義かけたり、天台・南岳の御義を知らざる故なり。されば当宗には天台の所釈の如く三遍読むに功徳まさる。第一に是相如と相・性・体・力以下の十を如と云ふ。如と云ふは空の義なるが故に十法界皆空諦なり。是を読み観ずる時は我が身即報身如来なり。八万四千又は般若とも申す。第二に如是相は是我が身の色形顕はれたる相なり、是皆仮なり。
平成新編御書 ―106n―