←前へ 次へ→ 『三種教相事』
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二門悉く昔と反すれば信じ難く解し難し。鋒に当たる難事は法華に已に説く。涅槃は後に在れば則ち信ずべきこと易し」と。記の八 本十四 に云はく「鋒に当たるとは法華は前に在り、大陣の破り難きが如し。涅槃は後に在り、余党の難からざるが如し。初めに先づ鋒に当たる、斯は為れ易からず」と。玄の十に云はく「已今当の説最も為れ難信難解。前の経は是已説、随他意なり。彼に此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し」「余経に比するに即ち易し」等。秀句 下八 に云はく「当に知るべし、已説の四時の経、今説の無量義経、当説の涅槃経は易信易解なり、随他意の故に。此の法華経は最も為れ難信難解なり、随自意の故に。随自意の説は随他意に勝る。但し無量義の随他意とは未合の一辺を指す。余部の随他意に同じからざるなり」と。文句の九 六十一 に云はく「邪師の法を信受するを名づけて飲毒と為す」文。弘の九 本七 に云はく「法華已前は猶是外道の弟子なり」文。諸論の教道は此の実を見ず。玄の三 二十三 に云はく「法華は衆経を総括して、事此に極まる。仏出世の本意、諸の教法の指帰なり。人此の理を見ず、是因縁の事相なりと謂ひて、軽慢して止まらざれば舌口中に爛れんとす」と。籖の三 五十三 に云はく「已今当の妙、茲に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは、猶為れ華報なり。謗法の罪苦長劫に流れなん。具に止観第四の逆流の十心の中に説くが如し」と。籖の十 七 に云はく「一代の教法を收め、法華の文心を出だして諸経の所以を弁ず。請ふ眼有らん者は委悉に之を尋ねよ。法華は漸円にして華厳の頓極に及ばずと云ふこと勿れ。当に知るべし、法華は部に約するときも、則ち尚華厳・般若を破す。教に約するときは則ち尚別教の後心を破す」と。記の六 六十四 に云はく「諸の小王を廃して唯一主を立つ。是の故に法華を王中の王と名づく」と。記の一 本四 に云はく「本地の総別は諸説に超過し、迹中の三一は功一期に高し」と。輔正 一の三 に云はく「諸説に超過すとは、一は則ち前十四品に超え、二は則ち一代の教門に超ゆ。一々の句並びに諸経に異なるなり。故に已今当の説最も為れ第一と云ふ」と。論記 智証 に云はく「八教の頂に居す。故に最も其の上に在りと云ふ」と。文句の八 十四 に云はく
平成新編御書 ―72n―