←前へ  次へ→    『三種教相事』
(★71n)
 一目と言ふは乃ち最後入法の言に拠る。一生に之を行ぜば豈唯一目のみならん。是の故に或は一人に多を用ひ、或は多人に一を用ゆ。況んや一人の始末一をもって弁ふべきに非ずや。故に下に合するに衆多の為にするが如く一人も亦爾りと云ふ。羅とは爾雅に云ふ、鳥の罟を羅と曰ひ、兎の罟を■と曰ふ、又名づけて■と曰ふ。衆生の下は合す。捕とは陸の猟りなり逐なり」と。智証の釈に曰く「千目を備へずんば奚んぞ一魚を得ん。諸宗を尋ぬるに非ずんば寧ろ真味を知らんや」文。玄の六 八十九 に云はく「若し相似の益は生を隔つれども忘れず。名字観行の益は生を隔つれば則ち忘る。或は忘れざるもあり。忘れし者は若し知識に値へば宿善還って生ず。若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」文。涅槃経二十二に云はく「悪象等に於ては心に恐怖すること無し」文。涅槃経十に云はく「唯一人」文。守護章 中の上九紙 に云はく「都て正義ならず一切の学人」文。此等の文は、爾前今経・実不実・高下・浅深・本迹の大事の証拠なり。玄の十 四 に云はく「已今当の説最も為れ難信難解なり。前の経は是已説、随他意なり。彼には此の意を明かさず。故に信じ易く解し易し。無量義は是今説、亦是随他意なれば亦信じ易く解し易し。涅槃は是当説、先に已に聞くが故に亦信じ易く解し易し。将に此の経を説かんとす、疑請重畳せり、具に迹本二文の如し。請を受けて説く時、只是教意を説く。教意は是仏意なり、仏意は即ち是仏智なり。仏智至って深し。是の故に三止四請す。此くの如き艱難を余経に比するに、余経は則ち易し」と。籖の十 十五 に云はく「此の法華経は開権顕実し開迹顕本す、斯くの如き両意永く余経に異なるなり。請の倍し疑ひの多きこと復諸経に異なるなり。故に迹門には三止四請し、本門には四請三誡す」文。爾前法華の対判なり。文句の八 十四 に云はく「今初めに已と言ふは、大品已上漸頓の諸説なり。今とは、同一座席、謂はく無量義経なり。当とは、謂はく涅槃なり。大品等の漸頓は皆方便を帯すれば、信を取ること為れ易し。今無量義は一より無量を生ずれども、無量未だ一に還らず。是亦信じ易し。今法華は法を論ずれば一切の差別融通して一法に帰す。人を論ずれば則ち師弟の本迹倶に皆久遠なり。
 
平成新編御書 ―71n―