←前へ 次へ→ 『三種教相事』
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一には非頓非漸、二には頓、三には漸なり。初めをば亦円とも名づく」と。浄名広疏に云はく「円頓漸の三教なり」と。文句三 二十一 に云はく「当に知るべし、此の土にも一より無量を出だして、頓に非ずして而も頓、漸に非ずして而も漸。其の事已に竟はれば必ず当に無量の法を収めて還って一法に入れ、権を開し実を顕はし、化を息め真に帰すること彼の土と同じかるべきなり」と。記の三 上五十五 に云はく「一より無量を出だすと言ふは、始め華厳より般若に至る来皆一法より開出す。般若に至る時頓漸已に竟はんぬ。而るを人法華は頓漸の外に出でたりと知らず。請ふ、竟の字を観よ。法華は但是無量を収めて以て一に帰す」と。又云はく「非頓而頓等とは、法華の一乗は頓漸の摂に非ず。一に於て開出すれば乃ち頓漸を生ず。是の故に今非頓而頓と云ふ。非漸而漸此に準じて知んぬべし」と。註釈 中二十九 に云はく「法華の前四十余年四時の所説は四教八教なり。結成已に竟はる」と。弘の九 末四十二 に云はく「初めの華厳は是頓なり。次に若し鹿苑の下は是漸なり。法華涅槃は頓漸の摂に非ず。但是漸を会して而も頓に帰す」と。守護章 上の上四十二 に云はく「其の八教とは但前の四味に立つ。第五時に渉らず。法華涅槃は第五時に摂す。何ぞ八教に摂せんや。八教を狭と為し五味を広と為す。法華涅槃を八教に相摂するに両の義門有り。約教の辺は小分相摂し、約部の辺は都て相摂せず」と。玄の十 二紙 に云はく「凡そ此の諸経は皆是他意に逗会して他をして益を得さしむ。仏意は意趣何れにか之くといふを談ぜず。今経は爾らず。是の法門の網目を■けて、大小の観法、十力無畏、種々の規矩、皆論ぜらる所なり。前の経に已に説くを為ての故なり。但如来布教の元始・中間の取与・漸頓時に適ひ、大事の因縁・究竟の終訖を論ず。設教の綱格・大化の筌蹄なり。」と。止の一に云はく「界内は随他意なるが故に拙と為し、界外は随自意なるが故に巧と為す」と。又云はく「界内は能所有るが故に麁と為し、界外は能所無きが故に細と為す。」文。玄の十 初 に云はく「略して教を明かすに五と為す。一には大意、二には異を出だす、三には難を明かし、四には去取し、五には教を判ず。」文。
平成新編御書 ―69n―