←前へ  次へ→    『三種教相事』
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 此に於ては是顕、彼に於ては是密なり。或は一人の為に頓を説き、或は多人の為に漸を説き不定を説く。或は一人の為に漸を説き多人の為に頓を説く。各々相知らず、互ひに顕密を為す」と。又云はく「今の法華は是顕露にして秘密に非ず。是漸頓にして漸々に非ず。是合にして不合に非ず。是醍醐にして四味に非ず。是定にして不定に非ず。此くの如く分別するに、此の経と衆経の相と異なるなり」と。籤の一 末七 に云はく「初めの文に今法華は是顕露等と云ふは秘密に対非す。故に顕露と云ふ。顕露が七が中に於て通じて奪って而も之を言へば並びに七に非ざるなり。別して与へて而も之を言はゞ但前の六に非ず。何となれば七の中に円教有りと雖も、兼帯を以ての故に、是の故に同じからず、此は部に約して説くなり。彼の七が中の円と法華の円と其の体別ならず。故に但六を簡ぶ。此は教に約して説くなり。次に是漸頓非漸々と言ふは具に前に判ずるが如し。今の法華経は是漸後の頓なり。謂はく漸を開して頓を顕はす、故に漸頓と云ふ。法華の前の漸の中の漸に非ず。何となれば前は生熟二蘇を判じて同じく名づけて漸と為す。此の二経の中に亦円頓あり。今の法華の円と彼の二経の円頓と殊ならず。但彼の方等の中の三、般若の中の二に同じからず、此の二・三を漸の中の漸と名づく。法華は彼に異なるなり、故に非漸々と云ふのみ。人之を見ずして便ち法華を漸頓と為し華厳を頓々と為すと謂へり、恐らくは未だ可ならず。是合等とは是開権の円なり、故に是合と云ふ。諸部の中の円に同じからず、故に非不合と云ふ。合とは只是会の別名なり」文。籤の一 末五紙 に云はく「今家義を判ずるに味々の中に皆不定有り。故に旧が専ら二経を指すに同じからず」と。記の一 本五十五 に云はく「比竊かに読む者尚天台は唯蔵等の四なりと云ふ。一に何ぞ昧きや、一に何ぞ昧きや。是の故に須く経を消する方軌を知るべし。頓等は是此の宗の判教の大綱、蔵等は是一家釈義の網目なり。若し諸経を消するには但蔵等を用ふれば其の文稍通ず。若し法華を釈するには頓等の八無くんば挙止措を失ふ」と。授決集 上五 に云はく「四教と言ふは漸の中より出でたれば本大綱に非ず、此網目なり。須く知るべし、天台は三教を以て大綱と為す。
 
平成新編御書 ―68n―