←前へ 次へ→ 『十二因縁御書』
(★55n)
之を名づけて心と為す。適其れ有りと言はんとすれば色質を見ず。適其れ無しと言はんとすれば復慮想起こる。有無を以て思度すべからざるが故に、故に心を名づけて妙と為す。妙心軌るべし、之を称して法と為す。心法は因に非ず果に非ず。能く理の如く観ずれば即ち因果を弁ふ。是を蓮華と名づく。一心、観を成ずるに由って亦転じて余心を教ふ、之を名づけて経と為す」と。籤に云はく「有と言はゞ則ち一念都て無し。況んや十界の質像有らんや。無と言はゞ則ち復三千の慮想を起こす。況んや一界の念慮をや。此の有無を以て思ふべからざるが故に、則ち一念の心、中道なること冷然なり。故に知んぬ、心は是妙なり」と。爰に知んぬ、我等が心は法華経なり、法華経は我等が心なりと。法華経をしらざるは即ち我が身をしらざるなり。所謂、身を知らざる者あり、移宅に妻を忘れたる是なりと。されば仏にならざる者あり、後世の為に法華経を忘れたる者是なり。故に法華経を信ぜず謗る者は、諸仏に背き、諸天に背き、父母に背き、主師に背き、山に背き、海に背き、日月に背き、一切の物に背くなり。薬王の十喩見合はすべし。玄に云はく「眼・耳・鼻・舌皆是寂静の門なり。此を離て別に寂静の門無し」と。籤に云はく「実相常住は天の甘露の如く是不死の薬なり。今妙法を釈して能く実相に通ず、故に名づけて門と為す」と。寂静とは法華経なり。甘露とは法華経なり。止の三に云はく「如来の無礙智慧の経巻は具に衆生の身中に在り。顛倒して之を覆ひて信ぜず見えざるなり」と。
倩物の心を案ずるに、一切衆生等の六根は悉く法華経の体なりけりと、能く能く目をとぢ、心をしづめてつくづく御意得候へ。心が法華経の体ならんには、五根が法華の体にてある事は疑ひ無し。心は王なり、五根は眷属なり。目に見、耳に聞く等の事は、心がみせきかせするなり。五根の振る舞ひは併ら心が計らひなり。物を見るも心が所作なれば眼も法華経なり。耳に聞くも心が計らひなれば、耳即ち法華経なり。余根以て之に同じ。死ねば随ひて五根も去る。五根の当体は死ねども其の形は滅せず。然れども心がなければ、いつか死人の物を見聞くや。
平成新編御書 ―55n―