←前へ 次へ→ 『主師親御書』
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色二界の中間大宝坊の儀式、浄名の御室には三万二千の床を立て、般若白鷺池の辺十六会の儀式、染浄虚融の旨をのべ給ひしにも来たり給はず。法華経にも一の巻乃至四の巻人記品までも来たり給はず、宝塔品に至りて初めて来たり給へり。釈迦仏先四十余年の経を我と虚事と仰せられしかば人用ふる事なく、法華経を真実なりと説かせ給へども、仏は無虚妄の人とて永く虚言し給はずと聞きしに、一日ならず二日ならず、一月ならず二月ならず、一年二年ならず、四十余年の程虚言したりと仰せらるれば、又此の経を真実なりと説き給ふも虚言にやあらんずらんと不審をなししかば、この不審釈迦仏一人しては舎利弗を始め、事はれがたかりしに、此の多宝仏、宝浄世界よりはるばると来たらせ給ひて、法華経は皆是真実なりと証明し給ひしに、先の四十余年の経々を虚言と仰せらるゝ事、実の虚言に定まれり。
又法華経より外の一切経を空に浮かべて、文々句々阿難尊者の如く覚へ富楼那の弁舌の如くに説くとも其れを難事とせず。又須弥山と申す山は十六万八千由旬の金山にて候を、他方世界へつぶてになぐる者ありとも難事には候はじ。仏の滅度の後、当世末代悪世に法華経を有りのまゝに能く説かん、是を難しとすと説き給へり。五天竺第一の大力なりし提婆達多も、長三丈五尺広一丈二尺の石をこそ仏になげかけて候ひしか。又漢土第一の大力、楚の項羽と申せし人も、九石入の釜に水満ち候ひしをこそ、ひさげ候ひしか。其れに是は須弥山をば投ぐる者は有りとも、此の経を説の如く読み奉らん人は有りがたしと説かれて候に、人ごとに此の経をよみ書き説き候。経文を虚言に成して当世の人々を皆法華経の行者と思ふべきか。能く能く御心得有るべき事なり。
五の巻提婆品に云はく「若し善男子善女人有って、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄餓鬼畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん」と。此の品には二つの大事あり。一には提婆達多と申すは阿難尊者には兄、斛飯王には嫡子、師子頬王には孫、仏にはいとこにて有りしが、仏は一閻浮提第一の道心者
平成新編御書 ―50n―