←前へ 次へ→ 『念仏無間地獄抄』
(★39n)
菩薩の五十二位は十信を本と為し、十信の位には信心を始めと為なし、諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品十四誹も不信を以て体と為せり。今の念仏門は不信と云ひ誹謗と云ひ争でか入阿鼻獄の句を遁れんや。其の上浄土宗には現在の父たる教主釈尊を捨て、他人たる阿弥陀仏を信ずる故に、五逆罪の咎に依って、必ず無間大城に堕つべきなり。経に「今此の三界は皆是我が有うなり」と説き給ふは主君の義なり。「其の中の衆生は悉く是吾が子なり」と云ふは父子の義なり。「而も今此の処は諸の患難多し。唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説き給ふは師匠の義なり。而して釈尊付嘱の文に、此の法華経をば「付嘱有在」云云。何れの機か漏るべき、誰人か信ぜざらんや。而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付嘱に背き、他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む。故に主に背けり、八逆罪の凶徒なり。違勅の咎遁れ難し、即ち朝敵なり、争でか咎無からんや。次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり、豈無間地獄に堕ちざるべけんや。次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり、争でか悪道に堕ちざらんや。此くの如く、教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備へて大恩の仏にて御坐します。此の仏を捨て他方の仏を信じ、弥陀・薬師・大日等を憑み奉る人は、二十逆罪の咎に依って悪道に堕つべきなり。
浄土の三部経は、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず、三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫く衆生誘引の方便なり。譬へば塔をくむに足代をゆふが如し。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給ふまでの方便なり。法華の塔を説き給ふて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。然るに法華経を説き給ふて後、念仏に執著するは、塔をくみ立てゝ後、足代に著して塔を用ひざる人の如し。豈違背の咎無からんや。然れば法華の序分無量義経には「四十余年未だ真実を顕はさず」と説き給ふて念仏の法門を打ち破り給ふ。正宗法華経には「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」と宣べ給ひて
平成新編御書 ―39n―